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『大いなる笑い』

西南学院大学教授  片山 寛先生

2008年3月8日(土)

ディートリッヒ・ボンへッファー

1

善き力にわれ囲まれ  守りなぐさめられて

世の悩み共にわかち  新しい日を望もう

過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も

さわぎ立つ心しずめ  み旨に従いゆく

2

たとい主から差し出される 杯は苦くても

恐れず感謝をこめて 愛する手から受けよう

輝かせよ主のともし火 われらの闇の中に

望みを主の手にゆだね 来るべき朝を待とう(くりかえし)

善き力に守られつつ  来るべき日を待とう

夜も朝もいつも神は  われらと共にいます

ボンヘッファーの書いた讃美歌を、今歌いました。「善き力に守られ・・・」

新生讃美歌73番の作者ボンヘッファーは、ナチスの時代・ヒットラーの時代に生き、そして死んだ神学者です。教会人でしたが、ヒトラーに対する抵抗運動に参加しヒットラーの暗殺計画に加わリその重要な一員でした。
 ただし、彼の役割は、ヒトラーを直接暗殺することではなく、クーデターが成功した場合に、英国の教会を通じて連合国側の了解を取りつけることでした。ヒトラーの暗殺計画は実行されますが失敗に終わります。

 実際、至近距離で爆弾は爆発するのですけれど(7月20日事件)そのとき爆風でテーブルが裏返ってヒットラーはその陰で助かる訳です。暗殺を計画した一味(仲間)は捕らえられ、ボンヘッファーもその中にいました。
 獄中で書いた詩の1つであります。「善き力に守られつつ・・・・」
 戦争が終わる1ヶ月前に、彼はテーゲルという刑務所で殺害されました。

(中略)

 今日は、クリスチャンである事の原点に戻りまして、聖書をどう読むべきかをお話ししたいとおもいます。
 わたし達が聖書を読んでおりまして、特に旧約聖書をつまらなくしてしまう、つまらなく読んでしまうということであります。
 それは何故かというと、聖書の中では、話の順序が逆になっていることに気がつかないことだという事です。
 最初に神さまの命令がある。それに従って、あるいは逆らって人間が行動をする。神様に従った人間は褒められ、逆った人は罰せられる。最初に神さまの命令があるのだから、従えばいいのだと考えてしまう、とりわけそれは信仰のある方々に良く見られる失敗なのです。
 神さまの命令が最初に存在していて、命令に従えば正しく行動でき、命令に従わなければ間違っているのだと、そういう風に考えがちであります。

 しかし、聖書をよく読んでいくと、そういうことは現実には有り得ないのです。
 私たちが生きておりまして何かが始まる時、訳のわからない状況から始まっていくのであります。
 訳がわからない、どうしていいか分からない、そういう事に突然巻き込まれていることに気がつくのであって、答えが最初から有るわけでは決してないのです。どうしたらいいか分からない。
 その中でおたおたしながら、私たちは答えを求めて苦闘するのであります。

 例えば、ある日突然、自分が重い病気にかかっていることがわかる、もしかすると1年以内に世を去らなければならないかも知れない、家のローンだって残っているし、子どももまだ小さい。
いったいどうしたらいいのか。そういう事が、実際来るわけですね。

 その時、出来合いの答えなど全く存在しない。私たちはそういう中で、もがきながら苦闘するしかないのであります。そして私たちは聖書を取って必死で読みます。そのような苦しくて永い、あるいは短い苦闘の時がやってきまして、その中で私たちはようやく最後に自分なりの答えに辿り着きます。
 こう生きていったら良いんだと・・・と辿りつく。そのとき始めて私たちは気がつくのです。その答えは最初から聖書の中に書かれていた、最初から語られていた、と。

 聖書という書物は、そのようにして苦闘して苦闘してその最後に、ようやく本当の答えにたどり着いた方々が書いたものであります。
そこには最初から神の語りかけがあったのだと書いてありますけれど、彼らが最初から答えが分かっていたわけでは勿論有りません。おじ惑い困り果て、しかし最初から答えが語られていた事に最後に気が付いた。

 最初から答えが分かっていたとしたら、聖書は実につまらない、法律の本か道徳の教科書みたいな、こうこう生きなさいとか、愛国心を持ちなさいとか。そんな風なくだらない書物になってしまうのです。それを律法主義というのです。聖書という書物は旧約聖書にしても新約聖書にしても、私たちが本気でそれと取り組むための書物、それと格闘するための書物であり、教科書のような物ではないのです。

 ヨナ書第1章につきましても同じことがいえます。神さまがヨナに語りかけ、「大いなる都ニネベに行って呼びかけなさい」と言われたけれど、ヨナは嫌って逃げた。
だからヨナは信仰がなかったとか、あるいはヨナは神に逆らった悪い預言者で、後で悔い改めたのだとか、そんな風に理解してはならないのです。
むしろヨナという人は、どうして神がそう言われるのか分からなかったのです。
何故? どうして? 何でそんなコト言うんですか?
そう神さまに聞きたかったわけであります。ヨナにとって、そんな無茶な命令をする方が本当の神さまとは思えなかった。自分の考える限りの神さまとはとても思えなかった。何か悪い夢を見ているんだと思ったわけであります。

 何故、ヨナには神さまの言葉が理解できなかったのでしょうか。
それは、ニネベの町がアッシリヤ帝国という大帝国の首都であって、その国は今にもヨナがいるイスラエルを滅ぼそうとしている敵国であったからです。

 例えて言うならば、今から63年まえ日本とアメリカの戦争がありましたけれど、その真っ只中に日本人である私たちに、戦争の中で神さまが「お前はアメリカに行って、人々に呼びかけなさい。悔い改めよと説教しなさい。」
 というようなものであります。
 当時の日本では、アメリカ人というと卑劣な人間と言われていた。米英の人々は鬼畜と言われていた。
そのような時代に神さまから声があって、アメリカに行って人々に呼びかけなさいといわれる。
 果たしてアメリカに辿り着けるか、運よくニューヨークに辿り着いても自分一人で何が出来るのか、一人で声を張り上げても、馬鹿にして笑われるのはまだ良いとして、たちまち逮捕され牢獄行きになるだろう、悪くすると道を行く人々に殴り殺されても不思議はない。そういう時代で有りました。

 しかし、自分が危険だというだけだとヨナは救いようがあります。
もしこれが本当に神さまの言葉だとしたら、神さまはヨナを守ってくれるかも知れない。
 どんな苦しい中でも、獄中にたたき込まれても神さまが救ってくれるかも知れない。
けれども実を言うと、ヨナはニネベなんか滅んでしまえばいい、あんな酷い国が生きているのはおかしい、自分の同胞を何千何万も殺した国が生きているのはおかしい。
 そんな国に行って、人々のために神さまのことを伝えるなんてとんでもない、これは何かの間違いに違いない。空耳だったのではないか? 
 神さまの声に思えたけれど、悪魔の声かもしれない、ヨナはそう思ったに違いありません。
 ヨナは逃げ出します。そのおかしな声が聞こえてこない地の果てまで行こうと考えました。
 ヤッファというイスラエルの港町へ行くと運よくタルシシュへ行く船がありました。

 イスラエルは地中海の東の端ですが、タルシシュは地中海の西のはずれスペインにあるわけです。
 だから文字通り地の果てに行こうとしたのであります。
 ヨナは神さまから逃げようとしたけれど、神さまはヨナを離さなかった。
 今日の聖書の箇所にありますように、ヨナが乗った船は大嵐の真っ只中で不思議な経験をいたします。
 難破寸前になる。人々は、誰がこのような災いを招いたかくじ引きをする。
 するとそのくじがヨナに当たるわけですね。人々はヨナに聞きます。「あなたをどうしたら、海は静まるだろうか」。ヨナは答えます。「私の手足を捕らえて海に放り込むが良い。そうすれば、海は穏やかになる。私のせいで、この大嵐があなた達を見舞ったことは、わたしが知っている」。

 ここでもまた、ヨナは初めから全てが分かっているかのように言っていますけれど、しかし、初めからわかっていたと考えるとそれは間違いで、むしろヨナは、嵐のど真ん中で、神さまに改めて初めて出合ったわけです。嵐の中で船の中で、自分の命が危なくなった中で、神様に初めてのようにして出合った。
神様はこういう方なんだという事が初めて分かった。

 神さまを知るという事は、1回1回が全く新しい経験であります。
昨日までは会っていなかったと告白せざるを得ない経験であります。それが神さまに出会うということなのです。自分は神さまをこうだと思っていた。でも、それは偶像だった。
 自分は今日の今日まで、神さまはどういう方か気が付いていなかった。そう言わざるを得ない経験であります。どんなに深い信仰者にとっても同じであります。

マザー・テレサという有名な方がおられますけれど、1997年に亡くなりました。
 カルカッタというインドの町で生涯活動して、道端で倒れている路上生活者の方々をお助けになった。彼女は1972年ノーベル平和賞を受賞なさいました 。
 そのマザー・テレサの本を読みました。
「来て、私の光になって下さい」Come,Be My Light という題名の本です。

 その中でマザー・テレサは、自分の親しい尊敬する神父様に手紙を書いて告白しておりまして、それを読むと彼女は晩年、非常に苦しんでいたという事が分かりました。若いころに神さまのいい経験をしました。
 毎日が幸いでした。けれどもその後、50年代になってから自分は神さまを感じなくなりました。
 神さまのいる場所が私の中にはありませんでした。神さまのいる場所は空虚なままでした。
そういう事を書いているのです。
 そして彼女は修道女ですので、毎日ミサに、つまり聖餐式に預かっていたのですが、昔は嬉しかった、恵みを感じていた。しかし後には、砂をかむようでホスティア(パン)をいただいても何の味もしなくなったというのです。

 けれども同時にマザー・テレサは、自分が本当に神さまを感じなくなり、苦しみを感じているのは、イエスの十字架の意味が分かるためだったというのです。
 これを読んで私が思ったのは、マザー・テレサという方が本当に偉い人だったということです。
 マザー・テレサは、勿論そういうことを言いながらもミサを1日としてサボることはありませんでしたし、毎日毎日神さまに向かって長い祈りささげていましたし、貧しい人々のための活動を最後まで続けていました。
 ですから信仰はどんなに深くなってもこれで充分という事はありませんし、私たちは神さまを、繰り返し繰り返し新しく知らなければなりません。

 私は35年前に、1976年3月、それまで4年間通っていた岡山大学を中退しました。
 私は岡山大学の医学部を中退して、西南学院大学の神学部に進んで牧師になりましたので、それだけを聞くといかにも深い信仰があって宗教体験が有って、医者の道を捨て牧師の道を選んだように聞こえますので、皆様が私を評価してくださることが有るんですけれど、実際には大学を辞めた時点で牧師になるつもりは全くありませんでした。

 岡山教会にはすでに在学中から通い始めていたのですが、学校を辞めた時点ではクリスチャンでもありませんでした。
 ただ勉強が全く出来なくなっておりまして、このままでは到底卒業も出来ないという状況に追い込まれておりました。岡山大学の4年間を思い出すことは、私にとってある苦さを伴っておりまして、あまり話さないのです。
 どうして自分は学校に行かなくなってしまったのか、それが自分でも説明がつかないのであります。
私は高校生のおわりの頃から、将来お医者さんになりたいと考えるようになりました。
実は、祖父(父の父)がお医者さんであったわけです。東京大学医学部を出て、愛媛県今治市で開業していましたが、戦前に亡くなりました。

 父も医者になりたかったのですが、ちょうど戦争のせいもあって果たせませんでした。
父は5人の男の子の末っ子で、兄弟五人中二人が医者、一人が大学の先生、一人が戦死、父はサラリーマンでした。ですから父は、自分の三人息子の中の誰かが医者になってほしいと願っていました。
 私は三人兄弟の真ん中ですが、小さい頃からそういう事を聞いていました。

 私の父は、日本冷蔵に勤めていたんです。私の兄は2歳上で成績が良くいつもトップクラスでした。この兄が医学部志望でした。ところが最初の年に現役で落ち、次の年にあきらめて工学部に行きました。
 それが大きな動機になり、「それなら僕が行く」と私が言いまして医学部を受験する事にしたのです。まったく無謀な試みだと思いますけれど・・・

私の子どもの頃には、アフリカのランパレネというところで、アルベルト・シュバイツアーという偉いお医者さんがおられて、ノーベル平和賞を受賞しました。

 私も出来る事ならどこかの僻地かアフリカのような貧しい国に行って、人々の命を守るような、人々に尊敬されるような立派なお医者さんになりたいと思っていました。だから、ずっとアフリカは憧れの地で、一昨年ようやく行ってきました。
 
 私はそれほど成績は良くなかったのですが、大きな望みを持ちまして私は受験勉強を始めました。なかなか成績が上がらなかったのですが、2年間も浪人をして自分なりに頑張った甲斐もあって岡山大学医学部に入学しました。その喜びは昨日の事のように思い出すことが出来ます。

 けれども実は、そこのところで私は満足してしまったのであります。勉強をし続ける動機を失ってしまった。まだまだ医者になるには準備することが沢山あったけど、まだ未熟だという事を知っていなければならなかったのに、わたしは自分がひとかどの人間であるかのように、何か大きな事をやり遂げたかのように、大学に合格しただけで、ある意味で満足してしまったのであります。
 

 大学に入学してから、私はそれまで受験勉強のため我慢してきて、出来なかったことを次々にやりました。私は山登りに憧れておりましたので、そういうクラブに入り、季節ごとに山に登りました。春と秋は鳥取の大山に登る慣わしで、夏には北アルプスに登りました。冬山は怖いから、しませんでした。
 学生運動にも興味を持ち、公害に反対する運動に参加しました。当時は学生運動の熱気が、大学にいくらか残っていたのであります。

 それから私は文学が大好きで、高校生頃からこっそり小説や詩を書いていたんですけど、大学では暇に任せて小説や随筆や童話などを沢山書きました。
 今から振り返ると屑のような作品ですが、馬鹿だから自分では結構いい線をいってると思っていました。もっと恥ずかしいのですけれど、漫画を描くのも中学生の頃から趣味でありまして、詩人や小説家には才能が足りないからなれないとしても、漫画家ぐらいは成れるのではないかと・・・・。

 今、日本の文化の中で一番世界中で評価されているのは漫画やアニメの才能なんです。日本の漫画文化は有名です。ですから今の天才的な漫画家たちを見ると失礼な話なんですが、漫画家ぐらいはなれるだろうと、傲慢で不遜な気持ちをもっておりました。

 大学3年生の頃からキリスト教に興味を持ち、祖母がクリスチャンであったということもあり、時々教会に行くようになりました。
これは岡山教会の梅田牧師が、公害に反対する運動のメンバーでいらっしゃって、その会合でよく顔を合わせ、いろんなことを頼まれるということも大きな原因になっています。
そんな風に私は、ありとあらゆることをやっているうちに肝心の学校へは行かなくなってしまったのであります。学校は面白くなかった。たまに学校に行っても自分の教室が分からない、すごすご帰ってくる・・・というふうになりました。結局4年間在学して大学を辞めました。


 今から考えると、私はそのつど自分の目の前にあることに熱中していたのですが、自分の将来を考えて、それを見つめ、そのためにコツコツ努力することは出来ていませんでした。それは今でも出来てないな、と感じています。大学をやめてからの数年は、私にとりまして、自分の生涯で最も暗い月日であったかも知れないと思います。
 私は、大学の近くにあるカレッジという喫茶店でアルバイトをしていました。1日働いて3000円ぐらい、週に四日アルバイトして食べていました。月に6・7万円でしたので、住む家もない状態でした。


 そこで私は、公害に反対する運動の事務所の片隅に寝泊りをしていたのです。布団を置く場所だけを許されて・・・・  
 学校を辞めたときは意気揚々としておりまして、今こそ自分は自由だ、これから好きな事が出来ると考えていたのですけれど、自分にはそういう力がないという事が分かりました。
 自分は無能だと気付きました。自分の才能だと思っていたものは全て、何か自分の力でなく、いろんな制度の中でそう見えていただけだと気がつきました。

 今でも忘れることができませんけれど、私は時々夜中にびっしょり汗をかいて、跳ね起きることがありました。
事務所の中は真っ暗です。
その真っ暗な中で、自分が何処にいるのか、いったい何処に行くのか、何をすればいいのか分からなくて頭を抱えていた事があります。
その中で私は、以前より熱心に教会に通うようになりました。聖書を自分の人生の問題として、人生に何か意味を与えてくれるものとして読み始めたのであります。


 私はその数年後、梅田先生のお勧めで西南学院大学神学部に入学して牧師になる道を歩み始めたのですけれど、その道の出発点は、あの真っ暗な事務所の寝苦しい夜にあったと思います。私の青春時代は、そんなものでした。

私もまたヨナと同じように、大きな力から逃げようとして、神さまの言葉から逃げようとして、若い時代をさまよいました。私は神様から逃げようとしたけれど、神様は私を離さなかった。
繰り返しくりかえし私の人生に大嵐を送って、私を引き戻してくださったのであります。

 ヨナ書と言う書物は不思議な文章であります。
たった4章しかない短い書なんですけれど、私たちの常識と思い込みを見事にひっくり返してくれる不思議な力をもっています。

 今、私たちの住んでいるこの国で、一番大きな問題は何だと思われますか? 
私たちの中で、老人も若い人も、他人のために何かしようとする人が少なくなったということです。
大勢の人々が自分のことで精一杯、他の人のことまで手が回らない、そう思っている。
社会的に地位の高い人も低い人も、若い人も年配の人々も、判で押したように自分のことばかり考えて不安に感じている。

 最近、海上自衛隊のイージス艦が漁船とぶつかりまして、ぶつかると言うより踏みつけてと言う感じで、漁船の親子は行方不明となり絶望視されておりますけれど、あの事件の時も私は腹立たしい思いになりました。
 事故があるのは人間だから分かる。でも事故の後、イージス艦の責任者は何をしていたか、防衛庁の人々は何をしていたか。彼らは事故を小さく収めようとして動き回っていた。大きな問題にならないよう右往左往していたわけです。その一方で救難活動はいい加減だったとは言いませんけれど、後回しにされてしまった。

 つまり為すべき事が為されないで、自分の責任を回避することを先に考えた、その事が大きな、そして悲しい問題であります。
 あるいは道路特定財源という いわゆる揮発油の暫定税を国土交通省や道路公団が無駄遣いをしていたと言う問題も、あるいは社会保険庁に私たちが納めた年金保険料が5000万件宙に浮いている、最近の新聞でそのうち2割ほどが特定されたけれど、残りは資料もない状態である。

 また厚生労働省の血液製剤による薬害エイズの問題でもC型肝炎の問題でも、その問題の根本にある悲しさと、腹立たしさと言いますのは、事件が間違って起きてしまったというそのことだけで、日本という国のお役人たちが自分の利益の事ばかり関心が強くて、退職後の天下り先とか、関連業界の利益の事とか、そんな事には熱心ですけれど、国民を守らなくてはいけないという本来の業務には甚だ無関心であった。

全く無関心とは思いませんけれど、その事にはどうしても関心が向かなかった、後回しにしていた。
年金保険にしましても、これは大変な事になるぞと思った方は多かったはずです。でも後回しにしたまま退職して行ったのですね。そういう事の方が、残念な気がするのです。

 私は大学で、神学部で牧師になる学生を教えておりますけれど、一般の学生にもキリスト教学という授業を教えております。
 そこに来ております学生たちを見ておりましても、若い人達の多くが自分のことしか関心がなくて、と言いますより若い人の多くは自分以外のものに関心を持つことが出来ない。

 残念ですけれど、それで彼ら自身も困っている。多くの若者が自分のためになることをしたいと思っています。企業や国家の奴隷になるのでなく、本当に自分らしく生きていきたいと思っている。けれどもその自分が見つからない。それで困っているのです。
 本当に自分が何をしたいのか分からない。
 旅行をして自分探しをしたり、新宗教に行ってみたりしているわけであります。そんな事をするのならキリスト教に来ればいいのになあと言うように思うんですけれど、キリスト教のように伝統的な宗教は難しそうだからというので敬遠をしている訳であります。

 そういう意味で、今の若い人は気の毒な状況にある。
 自分が分からない、自分のために生きたいのに自分が分からない。
 自分のために生きたいというのは当然の事のようだけれど、そこに大きな落とし穴が潜んでいます。
 自分のためにと思ってした事が自分のためになっていなくて、かえって本当の自分を見失う事にしかなっていない。彼らは何処かにあるはずの自分を探しに旅に出るんですけれども、しかし、それは本当の自分から逃げていることでしかない。その悲劇が私たちの時代にはあります。

 何故かというと、本当の自分というのは、実は私たちが自分以外の人々のため生きる、そのところで初めて自分を発見できるからです。

 ヨナ書は不思議な書だと言いましたけれど、ヨナ書はまさにそれを主題にしているという事が出来ます。ヨナは神さまのお命じがあって、それがイスラエルのためにならないと思い神を避けて遠い国に逃げようとした。そこに大きな矛盾がある訳です。
 イスラエルのためにならない、イスラエルを愛する、だからイスラエルから逃げ出すというわけです。
イスラエルの敵であるニネベなんか滅びればいいと考えていた。しかし結果としては、イスラエルを離れ問題から離れ自分自身から離れることでしかありませんでした。イスラエルのためと言いながら、イスラエルを捨てるという事をヨナはしていたわけです。
 そのようなヨナを、神は見捨てられませんでした。

 イスラエルを離れて船出したヨナを、神さまが遣わした大嵐が襲います。
船は嵐の中で木の葉のように弄ばれ、難破寸前になります。人々はヨナに聞きます。

 「さあ,話せ。この災難が我々に降りかかかったのは誰のせいか? あなたの仕事は何か? 国はどこか? 何処の民族出身か?」
 ヨナはこの時、自分が捨てたはずの故郷が自分についてきたと感じたに違いありません。人は何処まで逃げても、自分自身からから逃げることは出来ない、そのことをヨナは悟りました。ヨナは答えます。
「私はヘブライ人だ。海と陸を創造された天の神、主を畏れる者だ。」
 それは信仰告白だと言っていいわけです。人々は、ヨナを海に投げ込みます。
 神さまは巨大な魚に命じてヨナを飲み込みました。ヨナは3日3晩、魚の腹の中にいたと書かれています。「巨大な魚」でありますが、ヘブライ語で“ダーグ・ガドール”とい言います。“ダーグ”が「魚」で“ガドール”が「大きな」と言う意味です。

この魚について、続きは明日お話したいのですけれど・・・。実はこの魚についてスイスのバーゼルの牧師でありましたヴェルナー・ペンツァクという先生が、『笑っている魚』という説教集を書いていらっしゃるのです。魚が笑うなんて、どんな顔をして笑っているのか私は想像がつかないのです。
 私の妻は、絵を描いておりまして、妻は才能がある画家だと思っていますけれど(笑)、素人ですが賞をもらったりしています。
 それで妻に「笑っている魚の絵を描いてよ」。と言いました。
 何枚か描いてくれたのですけれど、その中で一番良く出来たのがここにかざってあります。

 ペンツァク牧師は、お魚が笑っているということは、実は神さまが笑っていらっしゃるということだ、と言うんです。
 神さまの大いなる笑いの、小さな反映がこのお魚の笑いなのです。私たち人間は自分がわからなくて、本当の自分は何処だって探しているわけです。そして将来の事が心配で心配で、嘆いたり怒ったりしているのですけれど、神様は朗らかに笑っておられる、そこに神さまの不思議な秘密のようなものがあるのだ、というふうにペンツァク牧師は言っているのです。

私が大学を止めたのは1976年の3月でした。それからしばらく喫茶店でアルバイトをしながら、岡山教会に熱心に通うようになりました。
 その年の10月10日に、学校を止めてから半年後ですけれど、梅田牧師と、石飛博美さんという女性と、この人は岡山大学美術教員養成課程を出て幼稚園教員をしておりましたけれど、この三人で鳥取県の大山に日帰りで行きました。

 帰り道、大山の中腹で牧場を横切っておりましたら、牛が追いかけて来て三人で必死で荷物を投げ出して走ったりしたんですけれど・・・ようやく麓に辿り着きまして、梅田先生が運転する軽四の車で岡山に戻りました。
 その帰りの車の中で、梅田先生が突然、助手席に座っていた私に「カンちゃん、牧師にならんかね。」とおっしゃいました。 驚きました。

 私はまだクリスチャンではなかったからです。
 
 クリスチャンでもない者に対して「牧師にならんかね」とは、何といういい加減な人だろうと思いました。
牧師というのは、自分のために生きる職業ではありません。教会のために、人々のために生きる仕事でありまして、それは私のような人間には到底無理だと思っていました。
 私は梅田先生を人間として尊敬しておりましたが、牧師というのは梅田先生のような人にしか出来ない仕事だと思っていました。私はすぐに「先生、僕には無理ですよ」と返事をしたのですけれど、先生は黙ったまま運転をしておられました。
 私も、その後は黙ってフロントガラスから前の方を見ておりましたが、ヘッドライトに照らされた道路を見ておりますと、目が回りそうになったのを覚えております。

 その年の12月に私は一緒に山に登った石飛博美さんと同じ日にバプテスマを受けたのですけれど、
バプテスマの頃から、先生が言われた「牧師にならんかね」という言葉を、時々考えるようになりました。そして2年経った後に、西南学院大学神学部に入学したのであります。
 ついでに申しますと、石飛さんという女性が今は私の妻で、この絵を描いてくれた人です。

 神さまが笑っておられるという事を今日覚えました。私たち人間は、自分自身が分からなくて右往左往しているけれど、神様は朗らかに笑っていらっしゃる、その事を思うのです。神さまは私たちを馬鹿にして笑っていらっしゃるのではありません。
 神さまには本当の私が見えている、私には見えない私が、神さまには見えている。
それが神さまの笑いであります。今日は、私の若いころの経験を中心にお話しさせていただきました。

 明日は、その後私はいろいろ勉強いたしましたので、その勉強した事柄から、もう少し神さまの笑いについて考えて見たいと思います。お祈りをいたします

 愛する神様 わたしたちの命を与え守り導き、あなたのみくにに至るまで導いてくださる神様。  
 今日私たちは、ヨナの物語を読みました。神さまはヨナを、ご自分の小さな道具としてお使いになりまし た。
 そのように、どうぞ私たち一人一人をあなたの小さな道具としてお使いください。
 どうか私たちが人々を愛するという大きな、そして究極的な幸いの業の中で、私達を用いて下さいます ように。
 私達が隣人を愛し家族を愛し、その中であなたと出会うことが出来ますように。
このお祈りを、尊い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン  


 


文責  池田契子

お嬢さんが描かれた 片山寛先生

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講義中の片山先生

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大山最高峯

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大山の紅葉

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