top of page

マタイによる福音書17章24-27節


花材/ランタナ・コスモス
花材/ランタナ・コスモス

 今日の聖書箇所には、イエスさまが二度目の受難予告を語られた直後に、神殿税をめぐる出来事が記されています。受難予告の直後というタイミングは、この後の対話が単なる「納税の是非」という議論ではないことを教えています。イエス様が神殿税について語られる言葉の端々には、これからご自身が支払おうとしている「究極の代価」への思いが込められています。主は静かに、しかし力強く、神の子としての自由と、その自由をあえて愛のために制限する決意を示されるのです。


 神殿税は、出エジプト記に定められた「命の代償」であると記されています。これは神殿の維持費ではなく、自分が神によって裁かれる罪を抱えていること、そのために代償が必要であるという意味が込められています。しかし、神の子であるイエスさまにはその代価を支払う必要はありません。にもかかわらず代償を支払わなければ滅びるしかない「僕(しもべ)」の列に、自ら並んでくださったのです。出エジプト記が記す「命の代償」という考えを無視するのではなく、引き受けることで、律法の真の意図である「命の救い」を成就しようとされたのです。


 「神殿税は支払われた」。この宣言は、私たちの絶望を希望へと変えます。主の恵みは、今、あなたと共にあります。


広島教会 播磨聡牧師


音声メッセージ

出エジプト 2:11-25

 


 私たちは、それぞれの人生の物語を生きています。夢や希望をもって努力したことも、失敗し辛く悲しい経験をしたこともあるでしょう。それらの物語は、私が主人公の物語のようでありますが、実は、「私が主人公で、私が始まりであり、終わりである」というものとは違うことを、私たち信仰者は知っています。私の物語だと思っているものが、実はもっと大きな、神さまの物語に包まれていて、行き詰る時も、天地万物の創造に関わるような壮大な神の歴史の中に、私の物語が包まれているのです。今日の聖書に登場するモーセの人生も、壮大な神の物語に包まれていて、人間の物語としては苦しみの連続の人生ですが、それが実は神の物語においては、とても重要な意味を持っているのです。


 間違いなく、聖書の中に出てくる神の使者、力強き指導者、英雄の一人、それがモーセです。しかし、そのイメージだけで語ってしまうと、やはり違う、神の救いは違うと言わざるをえません。聖書に登場する他の指導者たちと同様に、自分の生い立ち、自分の傲慢、自分の罪のゆえに、自己崩壊し、苦しみ呻きながら生きた人でした。神は、問題を抱え、つまずきとなるような人を敢えて選んで、ご自身の救いの業を進められるのです。

指導者と言えども、自分も助けてもらわなければならない罪人に過ぎないのです。だからこそ、今苦しみの中で身悶えし、呻き、嘆き苦しむ人を、他人事のように見下すことができない指導者となるのです。イエスさまもそうだったじゃないですか。人々から嘲られ、罵られ、呪われる中で、殺されていきました。この世の罪に呻き嘆く人の悲しみを救い出すために、ご自身がその苦しみのどん底に立たれたのです。栄光に輝く方が、何の痛みもなく、罪人の罪を赦してあげるというような、栄光の神学とは違うのです。十字架に苦しみ給うお方が、私たちを罪から救い出すのです。自ら自己崩壊し、救いを必要としている人が指導者として立てられ、自分も傷つきながら、他者の救いのために、汚れていくことができる人がいるところ、それが教会です。


 モーセは、殺人者、逃亡者、寄留者でした。自分が何者か分からなくなった人でした。ヘブライ人の男の子が生まれたら殺せとファラオが命じた中で、奇跡的に生き延び、王女の子どもとして王宮に育ったのがモーセでした。しかし私は、そのような英雄物語や、奇跡物語、安易な神賛美に抵抗を覚えます。あまりにも多くの子どもたちが殺された事実の中で、自分だけ奇跡的に救われたと言われても、喜べるものではありません。自分はイスラエル人なのか、エジプト人なのか、悩み苦しみ、エジプト人を殺してしまったことが露見して、モーセはミディアンの地で寄留者として生きることになります。生まれた子どもの名前は「ゲルショム」、「寄留者」を意味する名でした。モーセが指導者としてファラオと闘う場面は、既に80歳になってからのことです。なぜ80年もの月日が必要だったのか。私は、これこそモーセが指導者として相応しくなるための時間だったと思っています。自分が何者か分からなくなるほど葛藤し、自己崩壊していく中で、自分の力では何もできない者だと知るための時間、ただ神のご命令だからと従うだけの人間となるための時間だったのだと思います。


モーセは、殺人者、逃亡者、寄留者でした。自尊心さえ失うほどに、自分を見失い、破綻した状態で生きていたのです。しかしモーセは、だからこそ、人の痛みを知ることが出来る人になれたのだと思います。自分に絶望し、自己破綻するような経験はしない方が幸せに決まっています。しかし、そのような経験を持つモーセだから、神は、イスラエルの民を助け出す指導者として選ばれたのです。自分を誇れないような弱い人間だから、弱いイスラエルの人々を導く者として用いられたのです。自分に絶望する中で、本当に頼るべき方は神であり、他人を愛することの意味を知ることが始まるのです。モーセが失意の殺人者、逃亡者、寄留者であったこと、そこからしか、神の物語は始まらないのです。きっと、私たちも同じです。自分がダメな人間であること、自己崩壊するような人間だからこそ、今ここで、神さまと出会わせていただいて、ここにいても良いのだ、そのようなあなたのために命を捨てても惜しくないと言ってくださる神さまと出会わせていただいているのです。神さまの救いの物語は、人間の自己崩壊、苦しみもがき続ける日々の中で、進められていくのです。私たちも、神さまの救いの物語の中で用いていただきましょう。モーセのように。


広島教会 播磨聡牧師


音声メッセージ

8月30日
読了時間: 2分
マタイによる福音書11:28-30


花材/オリヅルラン・スプレーカーネーション
花材/オリヅルラン・スプレーカーネーション

 徳川家康の遺訓とされる「人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし」という言葉には、長年の苦難を経て天下を納めた人物の深い説得力があります。聖書の中で、この言葉を思わせるのはモーセです。八〇歳で神から命を受け、イスラエルの民をエジプトから導きました。しかし民は荒野で何度も不平を言い、モーセに反抗しました。彼は四〇年間民を導き続け、ついには「自分一人では負えない、殺してほしい」とまで訴えます。聖書はモーセを「地上のだれにもまさって柔和な人」と評します。


 新約聖書には「重荷」を意味する言葉がいくつかあります。第一は、自分が担うべき使命や責任を表す「フォルティオン」です。神は各自に適した重荷と、それを担う力を与えてくださいます。第二に、一人では負いきれない「バロス」です。誰かに助けてもらい、一緒に追ってもらう必要のある重荷です。そして第三は、罪や悪い習慣など捨て去るべき「オンコス」です。

今感じている重荷がどれに該当するとしても、一人でくよくよと悩み続ける必要はありません。イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ一一:二八)と招いておられます。自分の力では負いきれない重荷や罪の重荷も、イエスのもとへ持っていく時、イエスが共に負い、最もふさわしい解決と安らぎへと導いてくださいます。   


広島教会協力牧師 高橋秀二郎牧師


音声メッセージ

江波キリスト教会 〒730-0834 広島県広島市中区江波二本松1丁目10−26 TEL:(082)231-4561

©2021 by 江波キリスト教会。Wix.com で作成されました。

bottom of page