- 杉本拓哉牧師

- 4 日前
- 読了時間: 2分
ヨナ書 2章1-11節
わが神、主よ あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。

困難な目に遭い、危機的な状況に置かれる時、私たちはまるで嵐の中にいるように感じます。先の見えない不安に襲われ、自分の力ではどうにもならない現実に立ち尽くすこともあるでしょう。必死に踏ん張っても、足元から崩されていくように思える日もあります。それでも、その時にこそ、神と一対一で向き合う瞬間なのかもしれません。
ヨナは嵐の海に沈み、大きな魚に飲みこまれました。握りしめた自分の正しさと計画を手放し、神に降参します。
それは今までの生き方を断念することであり、主にある新しい命に生かされることでもあります。神に反抗して逃げ去り、辿り着いた陰府の底においても、主は祈りを聞かれました。古いものは過ぎ去り、主の御手の中で新しくされるのです。人の目には終わったかのように思えたとしても、神はなおも生きて働いておられ、滅びではなく、新しい命へと導いてくださいます。私たちは、自分で自分を救うことはできません。私たちの能力や正義によるのではなく、引き上げてくださる主の御業によって、救い出されるのです。暗闇の中でも、一人きりにはしないお方が共におります。主の命に飲みこまれ、新しく遣わされていきましょう。
音声メッセージ
- 特別礼拝
- 2月22日
- 読了時間: 2分
コリントの信徒への手紙一6章19-20節
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

コリントの信徒への手紙一6章19-20節でパウロは、「あなたがたは自分自身のものではない」と語ります。私たちの体は、キリストの十字架という尊い代価によって買い取られ、聖霊が宿る神の宮とされました。これは単なる道徳的勧めではなく、「私は主のものとして生きる」という存在そのものの転換を意味します。神が御子のいのちをもって買い取られた私たちは、もはや傍観者ではなく、主に属する者として召されています。この真理は教会にも深く関わります。教会は特定の誰かが支える場所ではなく、キリストの体として結ばれた一人一人が担い合う共同体です。「教会の衰退」という問題意識が浮き彫りになっているこの現実の中でこそ、「誰かがする」のではなく、「私が主に属する者として立つ」という自覚が問われているのだと思うのです。神が高価な代価を払って建て上げられた教会を、自分の身のように愛し、祈り、仕え、宣教の働きに参与することこそ、体をもって神の栄光を現す歩みです。主のものとされた恵みに応え、主の体である教会を共に建て上げて行けることを心から願います。
高松太田キリスト教会 吉田睿濫
- 特別礼拝
- 2月15日
- 読了時間: 2分
マタイによる福音書 18章15-20節
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

現代はSNSやオンライン礼拝など、距離や時間を越えて人とつながる手段が豊かに与えられ、ネットは必要不可欠な道具となりましたが、教会の交わりは、やはり対面で顔を合わせ、祈り、心を通わせるリアルの関係という土台の上にあります。マタイ18章の「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもいる」との約束は、小さな群れにとって大きな慰めです。牧師不在は不安や戸惑いを感じることがあると思いますが、教会員の皆さま一人ひとりが「この教会を形づくる主体である」ということに目覚める貴い機会でもあります。教会員同士の対話はますます重要となり、ネットという有益な道具を活用しつつ、実際に会って交わるリアルの絆も大切にしましょう。同時に他教会ともネットや時に行き来など工夫をして繋がり、一教会で問題を抱え込むことなく、共に歩んでまいりましょう。連合テーマとして「みんな、仲良く、楽しく、そして喜んで」と掲げています。弱さを抱えている私たちですがその真ん中に主ご自身が立って下さるという約束に信頼し歩みを進めてまいりましょう。
広島教会 連合会長 石倉央
音声メッセージ