- 播磨聡師
- 2 日前
- 読了時間: 2分
マタイによる福音書17章1-8節

今日の箇所の前で、ペトロは、フィリポ・カイザリアで、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。輝く神殿や像ではなく、埃まみれになって人々の苦しみに触れて歩くイエスこそ救い主だと告げた、見事な信仰告白でした。
しかしその直後、イエスが自身の受難と死、そして復活を予告されると、ペトロはその言葉を受け止めきれず、イエスをいさめます。人間と神の思いの隔たりが、ここに露わになります。
その流れの中で語られるのが、山上の変貌の出来事です。イエスは高い山で姿を変え、モーセとエリヤと語り合われました。この世でたった一人で苦悩しているイエスが、実はモーセとエリヤとともにいる。決して一人ではない姿に変えられました。悲壮感をもって破滅の道を歩んでいるようなイエスが、輝く栄光の道を歩む姿に変えられました。その時、天から声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」
山上の変貌と言われるこの箇所は、単なる栄光の物語ではありません。大切なのは、イエスが最初の受難予告をしたその後に起こったということです。人間には破滅としか思えない十字架の道が、神にとっては栄光の道なのです。私たちはペトロと同様に、間違いやすく弱い人間にすぎません。それでも、キリスト者としての道を生きていきましょう。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ
- 播磨聡師
- 4月12日
- 読了時間: 3分
マタイ 28:1-10

イースター、おめでとうございます。主イエスは、復活なされました。
この日、ガリラヤから従ってきた女性たちは、イエスの亡骸に香油を塗るために、墓へ向かって行きました。既に、イエスが殺されたことは、厳然たる事実となっていました。彼女たちは、悲しみと嘆き、不安を抱えながら、今できる精一杯のことをするために墓へ向かったのです。
「死」、それは人間の無力さ、はかなさを感じる瞬間です。死の現実に直面し、人は言葉を失い、すべてが虚しく、諦めなければならないように感じてしまいます。ましてやイエスのように処刑による死は受け入れ難いものです。
しかし、墓に到着した女性たちを驚かせる出来事が起こりました。大きな地震が起こり、天使が天から降ってきて、墓の入り口の大きな石をわきへ転がし、その上に座ったのです。そして、天使は言いました。5 節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。死んだ人が復活した。有り得ないことです。女性たちは急いで弟子たちに報せるため、墓から走っていった時、イエスが行く手に立ち、「おはよう」と声をかけて来たのです。女性たちは喜びと、驚きと、戸惑いとで混乱したことでしょう。
すべての事が無に服してしまう死。その死体が納められた墓。敗北と呪い、嘲りを受けて死なれたイエスさま。嘆きと悲しみの中で墓へと向かっていた女性たちは、その死を打ち破り、すべてをひっくり返す復活の出来事の証人となったのでした。
「イエスは復活なされた」この言葉は、人間の知恵や見識から言うならば、愚かしい話です。しかし、復活とは、人間の知恵や思考に、「ブレイク」、「中断せよ」、「やめよ」と、天からの縦の方向での中断の宣言がなされた出来事ではないでしょうか。十字架と復活は、人間の知恵や力、思考を「ブレイク、断念」する時です。そして、その時、新しいことが始まります。新しい世界が始まります。神の愛に突き動かされる人生が始まるのです。
復活された主はガリラヤに先立ち行かれます。貧しい人、病人、異邦人、遊女、徴税人、罪人たちとイエスさまが出会われた場所に、復活された主イエスは、弟子たちに先立って行かれているのです。ガリラヤで主イエスと出会える。きっと私たちにも、同じように語られていると思います。私たちが、それぞれにとってのガリラヤへ行く時、復活の主イエスさまと出会えるということを。
不安と恐れを打ち破る希望の朝、新しいことが始まる朝、イースターの朝、復活の朝を、今日、迎えました。不安や恐れを神の手に委ね、十字架と復活に示された神の愛に突き動かされる人生を歩んでまいりましょう。
音声メッセージ
- 播磨聡師
- 4月5日
- 読了時間: 4分
ルカ23章32-38節

受難週を迎えました。二千年前の今日、大勢の群衆が「ホサナ」と歓声を上げてイエスさまのエルサレム入城を歓迎しました。しかし、それからわずか五日後、その歓声は「十字架につけろ」という叫びへと一変します。神の子が救い主として来られたのに、民はそれを受け入れず、嘲り、罵り、捨てていきました。しかし、神の救いのご計画は、まさにこの十字架の犠牲を通して進んでいくのです。罵られてもののしり返さず、捨てられても見捨てない。ここには、イエスさまの「静かな熱情」がはっきりと描き出されています。
北九州の奥田知志牧師は、その著書『ユダよ帰れ』の中で、裏切り者の象徴とされるイスカリオテのユダにさえイエスの救いは及ぶと語っています。これは、ユダを最大の悪人と理解してきたキリスト教の神学を問う内容です。イエスの救いが完全であり、罪人のためのものであるならば、ユダであろうが、ペトロであろうが、私であろうが、そこに線引きはできません。ただ、ユダには別の点で決定的な過ちをおかしました。それは、罪の大きさそのものよりも、後悔した後に「帰るべき場所」を間違えたことです。彼は祭司長たちのもとにではなく、十字架のイエスさまのもとに帰るべきだったのです。
この「ユダさえも救われる」という教えに対し、「それではすべての人が救われるのであって、自分が信仰を持つ意味がない」と反発する気持ちが私たちの中にもあります。奥田牧師はそれを「自分教」と呼びました。自分が救われることを信仰の原点とし、他人の赦しを喜べない心。それは、十字架にではなく、自分の確かさや信仰の厚さに立脚してしまっている姿だと語ります。しかし、キリスト教はそもそも「自分の救い」を至高の価値と考えていません。イエスさま自身が自分の救いを考えておられたら、十字架で死ぬことはなかったからです。
聖書が記す十字架の場面で、主は自分を釘打つ者たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。圧倒されるような執り成しの祈りです。「お前は生きる価値がない」と自分を抹殺しようとする相手のために、なぜ赦しを祈れるのでしょうか。
この「自分が何をしているか知らない者」とは、当時の人々だけでなく、外ならぬ私自身のことでもあります。それは、エデンの園で隠れたアダムに神が語った「あなたはどこにいるのか」という問いのように、私たちの心の奥底を射抜きます。自分が何をしているか分からない、そんな私たちのために、主は最後の祈りを捧げ、本来私たちが受けるべき罪の裁きを身代わりに背負って息を引き取られたのです。私たちがまだ「自分教」に留まり、受容欲求を丸出しにしているその最中に、イエスは既に十字架で死んでくださったのです。
十字架の下で、議員たちは主を嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うが良い」。彼らは罵りながら、実は神の愛の本質を正確に言い当てていました。「他人を救うが、自分を救わない」。それこそが救い主の姿なのです。もしイエスさまが自分を救おうとされたなら、私たちは自分の罪の深さに気づくことさえできなかったでしょう。主は、自分が何をしているか知らない者のために、絶叫の叫びをあげて苦しみ、自分を捨てて執り成しを続けてくださいました。
ここに、私たちの信仰の立ち位置(自己成立基盤)があります。私たちは、自分の正しさの上に立っているのではありません。他人を救うために自分を救わなかった、あの十字架のイエスさまを信じる者として私たちは立っているのです。
そうであるならば、私たちはもう「自分教」という価値基準を捨てることができるはずです。他者の救いを共に喜び、他者の喜びを自分の喜びとする次元へと歩み出していきましょう。十字架を通して示された神の本質が、私たちを「他者のために生きる」歩みへと押し出しています。他人を救う。それが私たちの救い主イエスさまなのです。
音声メッセージ