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詩編62編1-13節


花材/カーネーション・教会の庭の植物
花材/カーネーション・教会の庭の植物

 今週の詩編六二編ではダビデは嘆き叫ぶのではなく、「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と告白します。この「沈黙は」は、ただ黙っているということだけを意味しません。嵐の中にある木が、深く根を張っているから倒れないという、彼の内面がどっしりと安定し、不動の状態を意味します。


 四節~五節で、周囲の激しい攻撃の描写があります。口先で祝福しながら心では呪う。その中でダビデは「わたしは動揺しない」と言い切ります。恐れはある、しかし動揺しない。「動揺する」という言葉は「揺れる・滑り落ちる」を意味します。恐れを感じても足が揺らがないのは、自分の強さからではありません。「わたしの救いはある」、神の方向を向くことで自らの重心が定まっている。そこに立っているから、揺れないのです。


 ダビデは、「人の子らは息よりも軽い」「暴力に依存するな」と語ります。それは他人への忠告というより、ダビデが自分自身に向かって語っている言葉に聞こえます。なぜならダビデ自身がウリヤを死なせその妻を奪うという道を歩んだからです。


 今、戦争の恐怖と威嚇に満ちたこの時代の中で、暴力を生む連鎖が繰り返されています。それでも「沈黙して、ただ神に向かう」のです。それは逃避でも諦めでもなく、そこに神の働かれる場所があると信じるのです。


広島教会 播磨聡牧師


音声メッセージ

マタイによる福音書24章36-44節


人間というのは、いつでも「知っていたい」のです。将来の危機を予知し、それに対応できるように準備することで安心を手にしたいのです。しかしイエス様は、静かに、しかし明確に言われます。「その日、その時は、ただ父だけがご存じである」と。これは「あなたの明日は、あなたの手の中ではなく、神の御手の中にある」という宣言です。神のなされることを自分の手に収め、自分の力で明日を保証しようとする傲慢さを、イエス様はこの一言で打ち砕いて行かれたのです。


イエス様は、終わりの日はノアの時代のように訪れると言われました。人々は食べ、飲み、結婚し、働くという、ごく普通の日常を送っていました。そのような何気ない日々の中に終わりの日が来るのです。


「目を覚ましていなさい」とは、特別な努力をなし、緊張し続けることではありません。今日ここにいるほかの人の痛みに目を向け、できることをする。その小さな日々の積み重ねを、神はご覧になられるのです。終わりの日がいつこようとも、今日私に与えられたこの場所で、やるべきことをやるだけです。それが目を覚ましていることだと思います。私たちは、主の憐れみを受けたものとして、痛みを抱えている隣人とその痛みを分かち合ってきましょう。


広島教会 播磨聡牧師

詩編 56:1-14


フロックス・アジサイ・ひまわり
花材/フロックス・アジサイ・ひまわり

 今日から三か月間、旧約聖書を礼拝で取り上げます。7月は詩編の学びです。詩編には、かつての信仰者が経験した神への賛美だけでなく、苦難や嘆き、呻きが神に向けてうたわれています。”なぜ神を信じて歩んでいるのに、こんなに多くの苦難が襲うのか”、”神はなぜ沈黙されているのか”、そのような私たちが経験する苦悩と同じ叫びが詩編にはあります。そしてその叫びを神に告白していく中で、作者自身の心が変えられ、"たとえ苦難の中にあっても、神は私を守る盾である"と、神への信頼の言葉へと変えられていく。詩編を繰り返して読んでいく中で、嘆き苦しみから神への信頼に変えられていく変化を、私たちも体験させていただけるのです。


 詩編56編は、ダビデがサウル王に追われてペリシテの地ガトへ逃亡し、正体を見抜かれそうになり、気が狂ったのだと見せかけ、城門の扉をかきむしり、ひげによだれを垂らしてまで生き延びようとした時に歌われた詩です。かつて戦闘に勝利し続けた英雄の姿はそこにありません。自尊心も体面もすべてを投げ捨て、ただ殺されないようにと情けない姿を露呈したダビデ。理不尽な苦しみに追い詰められながら、それでも神に向かって祈り続けたのがこの詩編です。6節にはこうあります。「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り、待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがいます」。言葉が苦痛となる。何を言葉にしても敵意によって歪められ、捻じ曲げられ、言葉が何も伝わらず、逆効果になり、苦しみしか返ってこない。追い詰められたダビデの状況が伝わってきます。


 そのような息詰まる状況の中でダビデはこう祈ります。9節「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。(中略)あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」。神は、私の嘆きを数えてくださっている。神の記録の中に私の嘆きが記されているとダビデは告白します。「革袋」とは当時の人々が水やぶどう酒を蓄えるために使った、生きていく上で欠かせない大切なものでした。嘆きの中で流す涙の一滴一滴を、神は数え、記録し、大切に革袋に蓄えてくださっている。そのことだけがすべての希望だとダビデは告白するのです。

 この神の愛と憐れみは、旧約聖書全体に貫かれています。出エジプト記3章7節で神はモーセに言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。奴隷の地で呻く人々の声を神は聞き、その痛みを神は知っておられる。これが「革袋に涙を蓄えてください」という祈りの根幹にあります。私たちの悲しみ、嘆き、声にならなかった涙の一滴も、無駄にはならないのです。 状況は何も変わっていない。ダビデはなお追われ、敵地にいる。けれども「涙を蓄えてくださる方がおられる」との一点が、嘆きを賛美へと変えていきます。傷つき、嘆き、夜眠れずに声を殺して泣くような時も、私たちはダビデと共に祈ることが許されています。「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と。十字架にかかられたイエスさまは、私たちの悲しみの涙を決して無にはなさらない。その革袋に涙を蓄えてくださる神と共に、嘆きから賛美へ、闇から命の光の中へ、歩み出してまいりましょう。



広島教会 播磨聡牧師

音声メッセージ

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