出エジプト記16:1-15

海を二つに分けるという奇跡的な救いを経験した後、イスラエルの民は、荒野の旅を続けましたが、モーセに不満をぶつけたのでした。エジプトではイスラエルの民は、百%被害者であり、助けられ、守られなければならない人々でした。しかし、自由を与えられると、彼らは神に不平を言い、神の救いを否定し、神に背く本性を持っていることが暴かれていきます。不平を言う民が神の民となっていくためには、訓練が必要だったのです。神は無条件に、一方的に、ご自身が犠牲を払いながら愛してくださる方です。しかし、その愛と許しを受けた私たちは神の民としての訓練を必要としています。
神様は不平を言う民を、裁き滅ぼすのではなく、天からのパンで養いました。これが四十年間毎日続きました。イスラエルの人々は、自分で働けません。マナを集めるだけです。「神様、私は自分の力で生きているよ」と言えない状況に身を置き続けます。それは、マナという神の恵みによって生かされていることを学び、人間の無力さを徹底的に認める日々でもあったのです。
神様に不平ばかりを言っているにも関わらず、神さまは天からのパンを与えてくださいました。私たちも自分の力で生きているのではないことを告白しましょう。神様に養われ、神を礼拝する神の民となっていきましょう。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ
出エジプト記13章17-22節

神は、エジプトで苦しみの中にあったイスラエルの民の叫びを聞き、絶大な神の力によって救い出されました。神は、苦しむものを見捨てず、必ず救い出してくださるのです。しかし、救われた民のあゆみはそこで終わりませんでした。エジプト脱出後、四〇年の荒野の日々が必要だったのです。
自由が与えられた彼らは、神の救いを否定し、神に背く民でもありました。被害者=善人ということではないのです。今日の箇所では、火の柱、雲の柱によって、神は先立ち、民を導く、民は神に導かれて生きるものであることを学んでいきます。荒野の四〇年は、自分の判断や力でどこまで行けるのか考えてはならない期間となったのです。ただ、神の導きによってのみ、生かされて生きる。その初めが、「主が先立ち、民を導く」という神の主権の下に生きることでした。
私たちは、神様の思いを本当には知り得ません。人間の知性や理性、英知によっても捕らえられない方です。しかし、「苦しんでいる人を助け出してくださる神様」というだけでは、到底理解し得ない厳しい現実があります。私たちの生きている現実の厳しさ故に、神は、私たちの前には隠れた方、隠れたる神なのです。神様が何をお考えなのか、よくわからないのですが、それでも、神様に精一杯の信頼を置いて従っていく。きっとそれでよいのだと思います。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ

左手 教会庭の木、
真ん中鶏頭
右手 近所で見つけた 野葡萄です。