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我、汝の翼の陰に入りて喜ぶ
詩編63編1-12節 花材/鉢植え・ホオズキ 今日の六三編は、これまでとは異なる場面から生まれた詩です。一節の表題「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」とは、王となった後、実の子に背かれ、エルサレムを追われて荒野を逃げ惑った出来事を指します。サムエル記下一五章三〇節、頭を覆い、はだしで泣きながらオリーブ山を登っていくダビデの姿。ダビデは、王としての権威も父としての愛情も、両方を一度に失いました。家族の間で起こる断絶や裏切りに苦しんだことのある私たちすべてにとって、決して他人事ではありません。 その中でダビデは、「わたしの魂はあなたを渇き求めます」と告白します。この渇きは身体的な渇きだけでなく、信頼していた息子に裏切られ、味方だと思っていた者たちが去っていく、孤独と絶望の中で、ダビデの魂そのものが渇いているのです。 しかし、詩編の後半でダビデは「あなたの翼の陰で私は喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い、あなたの右の御手で私を支えてくださいます」と歌います。神の守りの中で喜び、神に従い、その歩みを神ご自身が支えてくださるという三つのことが結び合わ
播磨聡師
8月9日読了時間: 2分


神を畏れ敬いますように
詩編67編1-8節 花材/テッポウ百合・白と黄菊・教会の葉っぱ 詩編六七編は、「神がわたしたちを憐れみ、祝福してくださいますように」という素朴な願いから始まります。ところが視界は広がり、「御救いをすべての民が知るために」と、自分たちのための祝福が、「すべての民」へと大胆に開かれていきます。そして、「すべての民が、こぞって、あなたに感謝をささげますように」という祈りが、繰り返されるのです。地上のすべての民のために純粋に執り成す祈りへと私たちを招いています。 しかし「すべての民のために祈る」ことは、口で言うほど簡単ではありません。私たちの内にある自己防衛の思いが行き過ぎるとき、私たちは自分を守るために他者を退け、自分を正しいとするために他者を裁き、排除するものになってしまう。自分を優先して相手を否定してしまう自己中心性という「罪」の現実を私たちは抱えているのです。 現代の私たちは「自分の人生は自分で切り開く」という価値観に囲まれ、いつの間にか「自分こそが人生の主であり、自分が小さな神になる」という根源的な罪の姿に陥ってはないでしょうか。しかし
播磨聡師
7月26日読了時間: 2分


わが魂は黙してただ神に向かう
詩編62編1-13節 花材/カーネーション・教会の庭の植物 今週の詩編六二編ではダビデは嘆き叫ぶのではなく、「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と告白します。この「沈黙は」は、ただ黙っているということだけを意味しません。嵐の中にある木が、深く根を張っているから倒れないという、彼の内面がどっしりと安定し、不動の状態を意味します。 四節~五節で、周囲の激しい攻撃の描写があります。口先で祝福しながら心では呪う。その中でダビデは「わたしは動揺しない」と言い切ります。恐れはある、しかし動揺しない。「動揺する」という言葉は「揺れる・滑り落ちる」を意味します。恐れを感じても足が揺らがないのは、自分の強さからではありません。「わたしの救いはある」、神の方向を向くことで自らの重心が定まっている。そこに立っているから、揺れないのです。 ダビデは、「人の子らは息よりも軽い」「暴力に依存するな」と語ります。それは他人への忠告というより、ダビデが自分自身に向かって語っている言葉に聞こえます。なぜならダビデ自身がウリヤを死なせその妻を奪うという道を歩んだからです。..
播磨聡師
7月19日読了時間: 2分