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この最後の者にも
マタイによる福音書20:1-16 花材/フトイ・南天・アマリリス これを、愛と憐れみに満ちた神の姿に思えますか。それとも、労働への対価として不公平な神様だと感じるでしょうか。人間の目で見れば、一時間働いた者と一日働いた者が同じ賃金なのは不公平で、経営者として愚かに見えるかもしれません。しかし、神様の思いはそこにありません。最後まで残されていた者にまで目を向け、今日を生きられるようにしたい、その一人の命を大切にしたいという、理屈を超えた熱情が込められています。報酬ではなく、神の「恵み(恩寵)」の物語なのです。 信仰とは、自分を「朝から働いた功労者」ではなく、誰にも顧みられなかった「最後の一人」であると自覚することから始まります。そして、「この私も見捨てられなかった」という驚きと感謝に生かされるとき、私たちは他者を裁く者から恵みを分かち合う者へと変えられていきます。 広島教会 播磨聡牧師 音声メッセージ https://drive.google.com/file/d/1RrqVdTTWBj0iSBY1lJwMYuhPGGQodUJG/view?
播磨聡師
5 日前読了時間: 1分


子供たちを祝福するイエス
マタイによる福音書19章13-15 ジャーマンアイリス 社会では、「あなたは大切だ」と肯定されるより、「あなたの代わりはどこにでも居る」と評価されやすい厳しい世界です。その中で私たちは、何が本当に大切なのか見失いがちです。 イエス様に触れていただくために子供を連れてきた人々を、弟子たちは叱りつけます。しかしイエス様は、「子供たちを来させなさい」と言われ、彼らを祝福しました。イエス様を大切に思うが故に煩わせまいとした弟子たちの気持ちは私達にもよくわかります。しかし、その弟子たちに共感を覚える私達にも、イエス様はそれは違うと言われます。何が大事で、何が大事でないのか、見分けられていない、そう憤られていると思ったほうがいいでしょう。 子供とは、自分一人では生きられず、誰かに支えられなければならない存在です。弟子たちが子供たちを遠ざけたのは、そのような存在のために時間を割くべきではないという「効率」や「排除」の理論によるものでした。現代社会もまた、強く有能で自立した人間を理想とし、依存することを恥とします。その理論は私たち自身の内側にも深く根を張っ
播磨聡師
5月17日読了時間: 2分


七の七十倍までも赦しなさい
マタイ 18章21-35節 花材/紅葉・ジャーマンアイリス 今日の聖書個所、マタイによる福音書18章には、全体を包み込む言葉があります。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」です。これはたった二人、三人でも大丈夫だよという少数者への励ましの言葉ですが、それだけではありません。18章全体は、一貫して人と人が共に居ることが難しい状況を描き出しています。誰が一番偉いかと争う自己中心性、小さな者をつまずかせる人、教会から迷い出てしまう人、罪を犯し誰かを傷つける人。人は誰か別の人といると、傷つきます。生まれ育った環境も、性格も、感性も、価値観も倫理観も違う人々が共に居れば、なぜ、どうして、と言いたくなることがしばしば起こります。一緒にいるのがしんどい、一緒に向き合うことが辛い、そんな人と人が共に居ることが難しいと思える二人または三人のただ中に、イエスさまは必ずいて下さる。私はしばしば、「あっ、今、イエスさまが、私とその人の間におられる」と感じることがあります。引き裂かれていく二人を引きつなぐために、イエ
播磨聡師
5月3日読了時間: 4分