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目を覚ましなさい
マタイによる福音書24章36-44節 人間というのは、いつでも「知っていたい」のです。将来の危機を予知し、それに対応できるように準備することで安心を手にしたいのです。しかしイエス様は、静かに、しかし明確に言われます。「その日、その時は、ただ父だけがご存じである」と。これは「あなたの明日は、あなたの手の中ではなく、神の御手の中にある」という宣言です。神のなされることを自分の手に収め、自分の力で明日を保証しようとする傲慢さを、イエス様はこの一言で打ち砕いて行かれたのです。 イエス様は、終わりの日はノアの時代のように訪れると言われました。人々は食べ、飲み、結婚し、働くという、ごく普通の日常を送っていました。そのような何気ない日々の中に終わりの日が来るのです。 「目を覚ましていなさい」とは、特別な努力をなし、緊張し続けることではありません。今日ここにいるほかの人の痛みに目を向け、できることをする。その小さな日々の積み重ねを、神はご覧になられるのです。終わりの日がいつこようとも、今日私に与えられたこの場所で、やるべきことをやるだけです。それが目を覚ま
播磨聡師
7月12日読了時間: 1分


裏切ることを知りながら
マタイによる福音書26章17‐25 花材/フヨウ・ヒオウギ 過越の食事の最中にイエスは語られます。「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている。」この言葉に、弟子たちは非常に心を痛め、「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めました。実際、イエスが捕らえられた時、弟子たちは全員逃げ去ります。誰が裏切ってもおかしくない、そのような不穏な空気の中で、イエス様は恐怖や混乱でなく、聖書に示された神の御心として、ご自身の死を受け止めておられるのです。そして、ご自分を裏切ろうとしているユダをも食卓から追い出さず、共に座らせておられたのです。 その直後、イエス様はパンをとり、「とって食べなさい。これはわたしの体である」と語られ、パンが割かれていきました。そのパンを受け取った中には、ユダも、のちにイエス様を否認するペトロも、恐れて逃げる弟子たちもいました。イエス様はそれを知りながら、パンを割き、杯を渡されます。 ここに福音があります。私だったら、誰かが裏切ろうとしていることを知ったなら距離を置き、関係を断ちます。しかしイエス
播磨聡師
6月28日読了時間: 2分


仕える者になりなさい
マタイによる福音書23章1ー12節 今日の聖書は、十字架への歩みに近づく緊迫した状況の中でのイエス様の言葉です。イエス様は「モーセの座に座っている律法学者やファリサイ人の言うことは行い、守りなさい」と言われます。職務の権威そのものは否定していません。問題にしているのは、その座をただ自分を誇るため、承認欲求を満たすために利用している「人間のあり方」なのです。 ファリサイ派は細かい規則の束を人々の方に「フォルティオン(重荷)」として載せました。この言葉は、マタイ一一章三〇節で「私の鞭は負いやすく、私の荷は軽いからである」と、全く同じ言葉でありながら、全く違う約束として用いられています。ファリサイ派が他者の方に押し付けた荷と、キリストが「ともに担おう」と差し出して下さる荷、この違いの中にイエスの福音の核心があります。 仕えることは、義務ではなく、自由の表れです。評価されるからでも、義務だからでもなく、キリストが先に仕えてくださり、十字架で罪を赦してくださったという一方的な恵みへの応答として、互いに仕えるのです。すでに赦されている。だから、背伸びし
播磨聡師
6月21日読了時間: 1分