- 杉本拓哉牧師
- 4月6日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙6章15-23節
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

社会で生活するためにはルールが必要です。家庭や学校や会社や国、それぞれに規則が定められています。もしも法律が無くなったとしたならば、ルール違反をしても罰則がないならば、どのような社会になるでしょうか。
神の基準として律法が与えられましたが、人は神から離れて罪を犯してしまいました。誰一人として神の義に生きることは出来なかったのです。アダムから始まった罪の結果により、罪人は死に支配されることになりました。しかしイエス・キリストが、罪人の代わりに十字架の贖いと神の義を成し遂げられたのです。
律法のルールの下では、罪人に定められてしまう私たちです。それでもイエス・キリストによる恵みのルールの下、赦された罪人として義に生きることへ招かれるようになりました。「どのルールに従って生きているのか」という問いを、「誰を主人として定めているのか」と、パウロは言い換えます。奴隷は主人の看板を背負い、主人の思いに応える中で、主人に似た者へと変えられていきます。赦されたからといって、今までと変わらない生活を送るのであれば、罪が主人であると告白していることになります。神の義を主人として生きていく時、豊かな御霊の実と、永遠の命を味わうことになるでしょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 3月30日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙6章1-14節
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

限度額の無いクレジットカードを譲り受けたら、際限なく購入するでしょうか。何をしても赦されるならば、欲求を叶えるために犯罪行為をするでしょうか。もしそうであれば、愛と信頼を誤用してしまっていると言わざるを得ません。愛情に不安を覚える人は、相手が困るような言葉や行動をして、どこまで赦されるかを探る「試し行動」をしてしまうことがあります。
それでも「神様はどこまで自分を愛してくれているだろうか」と、神の愛を測らなくて良いのです。なぜならイエスは、あなたを罪から救い出すために、十字架で命を懸けてまで愛を示されたからです。
イエスを救い主と信じる人は、バプテスマという儀式を受けます。全身を水に沈められることで、イエスと共に死んで葬られることを表します。そして水から起き上がらされることを通して、イエスと共に復活の命に生きることを証しています。だからといって、私たちを再び罪の支配下に引きずり落とそうとする、誘惑が無くなるのではありません。自分の力で、薬物やお酒、ギャンブルやゲーム、SNSや人間関係の依存から抜け出すことは困難です。しかし、神や人との関係を破壊してきた罪にイエスと共に死ぬ時、主にある命の恵みを見出すことになるでしょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 3月23日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙5章12-21節
一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

止揚(アウフヘーベン)とは、哲学の分野から始まった考え方です。矛盾や対立のある二つの要素をぶつかり合わせることを通して、一つの発展的な解決策を見出します。A案とB案をそのままでの形では否定しつつも、それぞれの大切な要素を活かして、新たなC案を生み出す出来事とも言えるでしょう。
イエス・キリストの場合においても止揚が見られます。神に敵対し罪と死に支配された人々に対する神の愛と、罪に対して怒りをもって裁かざるを得ない神の義とがぶつかり合いました。そこで成し遂げられたのが、十字架の和解だったからです。罪に対する裁きは十字架のイエスが引き受けられました。そして神の愛のゆえに、イエスの義が人々に与えられました。その結果、罪人と神との関係性が回復されることになったのです。
アダムから始まった罪の歴史は、イエス・キリストによって新しく恵みの歴史へと転換しました。一つの罪が死をもたらすことになったように、一つの義が命を与える恵みとなったからです。主の恵みは、善い行為に対する報酬ではなく、一方的に与えられるプレゼントです。封も開けずに押し入れにしまい込むことも可能ですが、それを豊かに受け取るならば、永遠の命を見出すことになるでしょう。
音声メッセージ