七の七十倍までも赦しなさい
- 播磨聡師
- 5月3日
- 読了時間: 4分
更新日:5月4日
マタイ 18章21-35節

今日の聖書個所、マタイによる福音書18章には、全体を包み込む言葉があります。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」です。これはたった二人、三人でも大丈夫だよという少数者への励ましの言葉ですが、それだけではありません。18章全体は、一貫して人と人が共に居ることが難しい状況を描き出しています。誰が一番偉いかと争う自己中心性、小さな者をつまずかせる人、教会から迷い出てしまう人、罪を犯し誰かを傷つける人。人は誰か別の人といると、傷つきます。生まれ育った環境も、性格も、感性も、価値観も倫理観も違う人々が共に居れば、なぜ、どうして、と言いたくなることがしばしば起こります。一緒にいるのがしんどい、一緒に向き合うことが辛い、そんな人と人が共に居ることが難しいと思える二人または三人のただ中に、イエスさまは必ずいて下さる。私はしばしば、「あっ、今、イエスさまが、私とその人の間におられる」と感じることがあります。引き裂かれていく二人を引きつなぐために、イエスさまがその間に立ってくださるという感覚を抱くことがあります。
21節以降で、ペトロは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか」と尋ねます。七回というのも完全数ですが、そこまででしょう、とペトロは愛をもって尋ねるのです。しかしイエスさまは、七の七十倍までも赦しなさいと、無限の赦しを命じます。そして、さらに強調するように、一つのたとえを話されました。ある王が家来に貸した1万タラント、当時の一般労働者が約20万年働いてようやく返せるほどの巨額の負債を、王は赦しました。しかし赦されたばかりの家来は、自分に100日分の賃金程度の借金がある仲間を牢屋に入れてしまいます。それを知った王は怒って言います。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか、と。まず私たちが知らなければならないのは、わたし自身が、まず、とんでもないほど巨額の負債を赦してもらった当人である、ということです。他人の罪が気になってイライラしているペトロに、そして私に、イエスさまは言われます。あなた自身が、まず、巨額の負債を赦してもらった当人であることを認めなさい、と。そこが私たちのすべての出発点です。
神さまの赦しは、徹底的に無条件です。しかし私たちは、これ以上赦したら本人のためにならないのではないか、赦しに条件を付ける必要があると考えます。傷ついた者の痛みは本物であり、赦せないという思いそのものは決して間違いではありません。それでもなお、イエスさまは、もう駄目だと切り捨ててしまおうとする思いに待ったをかけます。引き裂かれていくその人との関係を、あなたがさらに赦すことでつなぎ合わせようとしているのです。また、赦すとは相手を免責することではありません。赦すとは、まず、私自身が憎しみと怒りの牢獄から解放されることでもあるのです。赦せないまま生きることは、その人の言葉や行いに縛られ続けることです。イエスさまは、赦すことによって、あなた自身をも解き放とうとしておられる。もし私が条件付きの赦しを考えているならば、知らなければならないことがあります。それはわたし自身が、まず、とんでもないほど巨額の負債を赦してもらった当人であることを。
そのように赦された者は、同じように他人を無条件で徹底的に赦し続けざるを得なくなった、ということを心に刻まなければなりません。神の赦しは私たちを突き動かします。神の赦しは自己完結せず、他者の赦しへと私たちを動かすのです。無条件に、徹底的に、愛され、赦された私たちは、無条件に、徹底的に愛する以外に、生きる道を知らない者に変えられたのです。イエスさまに愛されたことを知った者は、もうその喜びのゆえに、愛することに条件を付けたり、自分が傷つくことを恐れる世界に戻ることはできません。引き裂かれた二人の間に立ってくださるイエスさまに倣い、赦された者は、今度は自分が誰かと誰かの間に立つ者へと変えられていきます。他者を無条件に徹底的に愛し、赦していく、それが教会の中にあるか、そこにこそ教会の真価が問われているのです。
広島教会 播磨聡牧師
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