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子供たちを祝福するイエス
マタイによる福音書19章13-15 ジャーマンアイリス 社会では、「あなたは大切だ」と肯定されるより、「あなたの代わりはどこにでも居る」と評価されやすい厳しい世界です。その中で私たちは、何が本当に大切なのか見失いがちです。 イエス様に触れていただくために子供を連れてきた人々を、弟子たちは叱りつけます。しかしイエス様は、「子供たちを来させなさい」と言われ、彼らを祝福しました。イエス様を大切に思うが故に煩わせまいとした弟子たちの気持ちは私達にもよくわかります。しかし、その弟子たちに共感を覚える私達にも、イエス様はそれは違うと言われます。何が大事で、何が大事でないのか、見分けられていない、そう憤られていると思ったほうがいいでしょう。 子供とは、自分一人では生きられず、誰かに支えられなければならない存在です。弟子たちが子供たちを遠ざけたのは、そのような存在のために時間を割くべきではないという「効率」や「排除」の理論によるものでした。現代社会もまた、強く有能で自立した人間を理想とし、依存することを恥とします。その理論は私たち自身の内側にも深く根を張っ
播磨聡師
5月17日読了時間: 2分


七の七十倍までも赦しなさい
マタイ 18章21-35節 花材/紅葉・ジャーマンアイリス 今日の聖書個所、マタイによる福音書18章には、全体を包み込む言葉があります。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」です。これはたった二人、三人でも大丈夫だよという少数者への励ましの言葉ですが、それだけではありません。18章全体は、一貫して人と人が共に居ることが難しい状況を描き出しています。誰が一番偉いかと争う自己中心性、小さな者をつまずかせる人、教会から迷い出てしまう人、罪を犯し誰かを傷つける人。人は誰か別の人といると、傷つきます。生まれ育った環境も、性格も、感性も、価値観も倫理観も違う人々が共に居れば、なぜ、どうして、と言いたくなることがしばしば起こります。一緒にいるのがしんどい、一緒に向き合うことが辛い、そんな人と人が共に居ることが難しいと思える二人または三人のただ中に、イエスさまは必ずいて下さる。私はしばしば、「あっ、今、イエスさまが、私とその人の間におられる」と感じることがあります。引き裂かれていく二人を引きつなぐために、イエ
播磨聡師
5月3日読了時間: 4分


これはわたしの愛する子
マタイによる福音書17章1-8節 花材/木瓜・菊 今日の箇所の前で、ペトロは、フィリポ・カイザリアで、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。輝く神殿や像ではなく、埃まみれになって人々の苦しみに触れて歩くイエスこそ救い主だと告げた、見事な信仰告白でした。 しかしその直後、イエスが自身の受難と死、そして復活を予告されると、ペトロはその言葉を受け止めきれず、イエスをいさめます。人間と神の思いの隔たりが、ここに露わになります。 その流れの中で語られるのが、山上の変貌の出来事です。イエスは高い山で姿を変え、モーセとエリヤと語り合われました。この世でたった一人で苦悩しているイエスが、実はモーセとエリヤとともにいる。決して一人ではない姿に変えられました。悲壮感をもって破滅の道を歩んでいるようなイエスが、輝く栄光の道を歩む姿に変えられました。その時、天から声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」 山上の変貌と言われるこの箇所は、単なる栄光の物語ではありません。大切なのは、イエスが最初の受難予告をしたその後に起
播磨聡師
4月19日読了時間: 2分