使徒言行録 2章14節-36節
主の名を呼び求める者は皆、救われる。
宗教は大きく二つに分けることが出来ます。善い行いや熱心な信仰や厳しい試練などを通して救いに至る「自力救済」と、神や仏などの恩恵や慈悲による「他力救済」です。仏教は元々、個人の悟りを勧める自力救済の教えでした。しかし浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀を拠り所に清浄な国で生きることを願うため、他力救済と言えるでしょう。宗祖である親鸞は「まかせよ、必ず救う」と呼び掛ける仏の声を聞いて応答するように語ります。
キリスト教もまた、他力救済です。イエス・キリストが人々の罪を担い、十字架で死なれ、三日目に復活したことを教えます。このイエスの十字架に罪の死を、復活に赦しの命を見出します。イエスの弟子ペトロは初めてのメッセージにおいて、聖書の預言の成就と、自分たちが犯した罪と、イエスにある救いを語ります。約2カ月前ペトロは「イエスなんて知らない」と否定し裏切りました。挫折した経験があるからこそ、語れる言葉があります。自分の力を誇るのではなく、神様の働きを証することができます。そして聖霊なる神様に力づけられて、素敵な未来のために夢を分かち合うことができるのです。
音声メッセージ
使徒言行録 2章1節-11節
一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
ひとつの所に人々が集まっても、一致することは難しく、分かれ分かれになることがあります。言葉や文化が違えばなおのこと、心を合わせてひとつとなるのは困難でしょう。旧約聖書にバベルの塔の物語があります。ひとつの言語で生活していた彼らは、高慢にも神様に届く塔を建てようとします。そこで神様は、人々の言葉を分かれ分かれにされました。それぞれが自分に都合の良い言葉だけを発していくならば、分断はますます加速します。
ペンテコステの時、弟子たちはひとつの所に留まり、イエス・キリストと、聖霊なる神と、父なる神のもと心を合わせました。すると、炎のような舌が分かれ分かれに弟子たちの上に留まります。弟子たちは、神の言葉を味わい語る、主の復活の証し人として立てられました。語られた内容は神様の偉大な御業、イエス・キリストの復活です。それは聞いた人の故郷の言葉で届けられました。神様は一人一人に寄り添い語りかけ、隣人に届けてほしいと託されています。分かれ分かれに散らされた自分たちの所にまで、神の言葉は届けられました。私たちもまた、聖霊なる神様から力をいただき、主の福音を届けてまいりましょう。
音声メッセージ
使徒言行録 1章12節-26節
彼らは皆…心を合わせて熱心に祈っていた。
家庭でも学校でも会社でも、目標に向かって心を合わせて挑戦することがあります。それでも、お互いの価値観が対立することもあれば、個人の欲望を優先してしまうこともあるでしょう。空気を読んで言葉を飲み込み、合意を得たとしても、一致とは言えません。そのような時には原点に立ち返ることも有効です。元々どのような思いから始まったのか、そして目指している地点はどこにあるのでしょうか。
教会の始まりは、イエス・キリストの言葉と約束にありました。課題に直面しても共に祈り、聖書から聞いていったのです。悲しい現実に打ちひしがれても、聖霊を通して語られた言葉は、その人を包みます。仲間の一人であるユダが、神様から遠く離れて行ってしまったかのように思えても、彼の人生もまた聖書の言葉の内にあったのです。祈りの中で、ユダが担っていた働きを託すため、新たに人を立てることになりました。独断ではなく、皆で集まって祈り求めました。そして、全ての人の心をご存知である神様に委ねたのです。教会は、創造主である神と、イエス・キリストと、聖霊なる神を中心に心を合わせます。神様こそが、初めであり終わりとなられる方だからです。
音声メッセージ