サムエル記下 7章8-24節
わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。
運動会の季節です。以前ニュースで、徒競走の順位を付けない幼稚園が話題になりました。その幼稚園が目指したものは、皆が一位になるという「結果の平等」でしょう。それとは対照的に、皆が同じ条件で行う競争は、「機会の平等」と言うことができます。それでも、道具の性能差、練習時間や場所、指導者の有無など、平等の難しさに直面することもあるでしょう。
はたして神様は公平な方なのでしょうか。依怙贔屓されないのでしょうか。もし神様が不平等を良しとされないならば、なぜ格差は広がっているのでしょうか。聖書には、神様の「選び」があることが語られています。アブラハムや、イスラエル民族、ダビデ王など、神様によって選ばれた人々がいます。共通点は、周りから小さくされ軽んじられている者が、神様によって選ばれ重んじられていく所です。それは人間の業ではなく、主が成し遂げられた事だと、皆が分かるようになるためです。才能豊かな人、経済が潤沢な人、外見が素敵な人は沢山います。それでも神様は、あなたや私を呼ばれるのです。一人ひとりを通して、誰も軽んじられることがないように、主の栄光があらわされるようにと招いておられるのです。
音声メッセージ
創世記 1章1-31節
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
「世界はどのように始まったのだろうか」古今東西の人々は、思いを馳せてきました。そして人知の及ばない出来事を前にして、神の存在を見出してきたのです。神話の中には、卵から世界が生じるもの、神や巨人などの死体から自然や資源が生まれるものもあります。神々が現れて日本を産み、その子孫として天皇が誕生したという書物もあります。
科学的には、ビックバンによって宇宙が発生し、天体の一つとして地球が誕生。そして大気は水に、マグマは大地となり、ある時に生命が誕生し、進化の過程で海の生物と陸の生物が生まれたと考えられています。科学技術の発展により、地球が辿ってきた道のりは明らかになってきました。それでも生命の誕生は、奇跡的な出来事であると計算されています。
結局のところ、約0%の可能性を前にして「たまたま偶然」と受け取るのか、「神の必然」として認識するのかの違いでしかありません。聖書には、神が目的をもって人を創造した様子が描かれています。神様は今日も、あなたに使命を与え、あなたに祝福を送り、あなたも周りもいのちをイキイキと生かしていけるようにと呼び掛けておられるのです。
音声メッセージ
ヘブライ人への手紙 9章1-22節
キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
礼拝の形は、時代によって変化してきました。出エジプトの幕屋においては、罪の贖いのために動物の犠牲を献げることが祭儀の中心でした。ソロモンによって神殿が建てられた後は、より詳細な規定が設けられるようになりました。しかし、バビロン捕囚により神殿での礼拝が出来なくなってからは、律法の書の朗読と説き明かしを中心とする礼拝が行われるようになりました。そして新約時代の教会では、詩編の朗誦や賛美、神の救いを語るメッセージ、バプテスマや主の晩餐がなされるようになります。
私たちは形に囚われてしまうことがあります。犠牲を献げれば義と認められるのか、聖書を読めば救われるのか、礼拝に参加すれば罪赦されるのではないか。しかし、自らの力で救われようとするならば、的外れとなります。イエスが成し遂げられたことは、神の基準である律法の成就でした。ただ一人罪を犯さなかったイエスが大祭司として、自らを犠牲の献げ物として、十字架で血を流したのです。イエスがただ一度流された血によって、過去から未来まで永遠の贖いが成し遂げられました。救いはイエスにあります。このイエスを信じて、応答する歩みが新約時代の礼拝なのです。
音声メッセージ