マタイによる福音書27章32-56節
イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、十字架上でイエスは叫びます。妬みに駆られた宗教指導者から貶められ、弟子たちは一目散に離れ去り、裁判を取り仕切る総督は無責任にも自己保身に走り、空気に流された群衆は手のひらを返し、イエスは十字架で処刑されます。そして信頼する神からも、引き離される痛みと悲しみを味わったのでした。
もしかしたら私たちも心当たりがあるかもしれません。周りの空気を恐れてイジメに加わったこと、妬みによって誰かの足を引っ張ったこと、自分さえ良ければと行動したこと、罪の性質は昔も今も変わらない所があります。イエスがそれらの罪をも肩代わりしてくれたと信じる時、十字架の贖いと救いの御業を知ることになるでしょう。
義なる神と罪ある世界は、神殿の幕によって隔てられていました。それは罪人が聖なる神に不用意に近づき、裁かれないようにするためでもありました。しかしイエスが罪を引き受けられて死に至る時、神殿の幕は真っ二つに破かれます。神の怒りは罪を引き受けたイエスに表されたので、人には赦しと関係性の回復、神との直接の交わりが与えられるのです。そして神は、隔たれていた幕を引き裂いて、愛する息子のもとに駆け寄ったのではないでしょうか。
音声メッセージ
マタイによる福音書26章36-46節
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

尊敬しているリーダーの弱々しい一面を見たら、ショックを受けることもあるでしょう。頼りにしていた親の老いに直面した時は、少なからず驚き、目を逸らしたくなるかもしれません。
イエスが直面していた、悲しみや苦しみは何だったのでしょう。十字架刑の肉体的・精神的な痛みでしょうか。弟子の裏切りや無理解、別離の悲しみでしょうか。はたまた神の怒りと憤りの杯を一身に引き受けられることだったかもしれません。神の怒りは罪に向けられます。イエスが人々の罪を代わりに受けられるならば、神とイエスは断絶せざるを得ません。今まで心を合わせていた神と、恐らく初めて意見がぶつかるのです。その上でイエスは、神の思いを優先する従順さを示されました。この振り絞るような祈りの格闘を、弟子たちも見ていましたが理解できず、眠りに落ちてしまいます。
そしてイエスは自らの弱さを吐露しながらも、弟子たちを気に掛けます。「離れないで一緒に目を覚ましていてくれ」、「共に祈りを合わせよう」、「共に立ち上がり出かけて行こう」と。イエスは、何度起こしても寝てしまう弟子たちを憐れむのです。インマヌエル(ヘブライ語で、主は我らと共におられるという意味)の主が、新しい歩みへと、私たちを導き招くのです。
音声メッセージ
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- 4月7日
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