ヨハネ4:7-26
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(21節)
今がその時である。なぜなら、父がこのように礼拝をす者を求められるからだ。(23節b)
今日の聖書の舞台、イスラエルにあるサマリアという場所は、ガリラヤ湖と死海の間に位置します。この地域は雨が少なく乾燥していました。イエス様は歩き疲れ、喉が渇き、井戸のところに座っています。するとそこにサマリアの女性が水を汲みにやってきました。イエス様はこの女性に「水を飲ませてください」と声を掛けます。しかし返事は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女性の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、つっけんどんな言葉。一体どういう訳なのでしょう。
この理由はサマリア人とユダヤ人との間に、歴史的な確執があったからです。両者は700年以上にも渡る犬猿の仲でした。イエス様はそのような対立の中で、相手の居る場所に自ら赴き、心が離れていた人に寄り添っていったのです。
そしてこの女性は、結婚と別れを繰り返しており、サマリア人の中でも孤立し、小さくされていた人物でした。イエス様は彼女の触れてほしくない、知られたくない、隠していたい、最も暗い場所を明らかにされました。イエス様の光が差し込む時、この人のイエス様に対する認識は、ユダヤ人男性⇒先生⇒預言者⇒救い主と、少しずつ変えられていきました。私たちは出会いによって変えられていきます。イエス様は今日も、あなたとの出会いを心待ちにしておられるのです。
ゼカリヤ8:1-23
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗ってくる。
見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。9節
果たして苦しみの意味とは何なのだろうか。古今東西、多くの人々がこの問に向き合ってきた。今日の聖書の箇所は、衝撃的な言葉で答えている。それは、「神が災いをくだす決意をした」との言葉だ。続く質問は「では、なぜ神は災いをくだすのだろうか」という疑問だ。その理由として「神は、激しく熱烈に愛情を注がれる方」であると、神の性質が語られている。愛していないならば、または無関心でいるならば、相手の言動や行動に対して、怒らなくて済むかもしれない。しかし、愛する民が神様を裏切るならば、神は怒りを発せられるのである。
神の怒りは災いとして現れることがある。しかし、災いで終わるものではない。神様との関係性は、一方的な神の恵みによって回復される。それは「神があなたに幸いをもたらす決意をした」からである。聖書は私たちに語り掛ける。神様があなたに対して真実であるように、あなたも隣人に対して真実でありなさい。神様の正義が愛に満ちているように、あなたの正義も愛で満たしなさい。神様によって平和の種が蒔かれたのだから、あなたも平和をもたらす裁きをしなさいと、招いている。自分の真実・自分の正義・自分だけの平和は争いを生む。神の愛により、神と人、人と人、人と自然との関係性は、繋ぎ合わされるのである。
Ⅰコリント6:12-20
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を表しなさい。 (19~20)
アメリカの大統領選挙はひとまずの決着がつきました。しかし、今なお両陣営の分断が続いております。私たちも先日、就任按手式記念品を4種類のデザインから投票によって決めようとしましたが、票が割れて過半数を超えるものはありませんでした。そこで、A案とB案を混ぜたE案、C案とD案を混ぜたF案、二種類を作成することに決まりました。私たちは一票の内に、思いを込め、祈りを込め、応援し、委ねていきます。広島での選挙、教会での総会、学校での生徒会選出、それぞれの場面で一票をもって主体的に関わっています。そこには選び取る自由があり、お互いに決められたことを守っていく責任があります。
自由があるところに責任もある。イエス様が私たちを罪から解放し、自由にしました。だからこそ私たちは、再び罪の支配下に陥らないようにする責任があるのです。あなたの体は、もはやあなただけの体ではなく、イエス・キリストの体の一部分だからです。さらに、あなたの体は聖霊が住まう神殿であると聖書は宣言します。モーセの幕屋、ソロモンの神殿と同様に、今あなたの体が神殿であり、神様の栄光を現す器なのです。あなたを通して人々は神様に出会っていく。だからこそ私たちは、神様を証していきましょう。一人一人の体を通して神様の栄光が現れていくことを祈りつつ。