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執筆者の写真杉本拓哉牧師

神の霊によって

更新日:11月24日

コリントの信徒への手紙一 2章1-16節
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

花材/チュベローズ・ジャーマンアイリス・アンネのバラ
花材/チュベローズ・ジャーマンアイリス・アンネのバラ

 キリスト教と十字架は切り離すことができません。多くの教会では十字架を見えるように取り付けられています。教会の歴史も重なり、一般的に十字架のマークを見れば、そこに教会があることを認識できるようになっています。

 しかし紀元55年頃の中東において、十字架は残酷な処刑法でした。そのような中、パウロはイエス・キリストの十字架を語り伝えていったのです。しかも、キリストは十字架につけられてしまったままでおられるのだと語るのです。パウロは伝道活動の中で命の危機にも陥りました。弱り果て、恐れや不安に苛まれることもありました。そんな時、十字架を見上げたのでしょう。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられた。自分を脅かす存在のためにも、また弱り果てた自分のためにも、十字架があるのだと。普通ならば、神様は自分だけの味方でいてくれることを求め、自分の気に入らない存在は居なくなって欲しいと願うでしょう。しかし、パウロ自身がキリスト教徒を迫害し、神様の敵対者だった過去があるのです。「過去に自分を憐れまれた神は、今も隣人をも救うため、十字架で招き続けているのだ」と、パウロは神様を証しているのです。


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