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主が成し遂げられた②
更新日:11月25日
ヘブライ人への手紙 9章1-22節
キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
礼拝の形は、時代によって変化してきました。出エジプトの幕屋においては、罪の贖いのために動物の犠牲を献げることが祭儀の中心でした。ソロモンによって神殿が建てられた後は、より詳細な規定が設けられるようになりました。しかし、バビロン捕囚により神殿での礼拝が出来なくなってからは、律法の書の朗読と説き明かしを中心とする礼拝が行われるようになりました。そして新約時代の教会では、詩編の朗誦や賛美、神の救いを語るメッセージ、バプテスマや主の晩餐がなされるようになります。
私たちは形に囚われてしまうことがあります。犠牲を献げれば義と認められるのか、聖書を読めば救われるのか、礼拝に参加すれば罪赦されるのではないか。しかし、自らの力で救われようとするならば、的外れとなります。イエスが成し遂げられたことは、神の基準である律法の成就でした。ただ一人罪を犯さなかったイエスが大祭司として、自らを犠牲の献げ物として、十字架で血を流したのです。イエスがただ一度流された血によって、過去から未来まで永遠の贖いが成し遂げられました。救いはイエスにあります。このイエスを信じて、応答する歩みが新約時代の礼拝なのです。
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