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他人を救う、それが救い主

ルカ23章32-38節


 受難週を迎えました。二千年前の今日、大勢の群衆が「ホサナ」と歓声を上げてイエスさまのエルサレム入城を歓迎しました。しかし、それからわずか五日後、その歓声は「十字架につけろ」という叫びへと一変します。神の子が救い主として来られたのに、民はそれを受け入れず、嘲り、罵り、捨てていきました。しかし、神の救いのご計画は、まさにこの十字架の犠牲を通して進んでいくのです。罵られてもののしり返さず、捨てられても見捨てない。ここには、イエスさまの「静かな熱情」がはっきりと描き出されています。


 北九州の奥田知志牧師は、その著書『ユダよ帰れ』の中で、裏切り者の象徴とされるイスカリオテのユダにさえイエスの救いは及ぶと語っています。これは、ユダを最大の悪人と理解してきたキリスト教の神学を問う内容です。イエスの救いが完全であり、罪人のためのものであるならば、ユダであろうが、ペトロであろうが、私であろうが、そこに線引きはできません。ただ、ユダには別の点で決定的な過ちをおかしました。それは、罪の大きさそのものよりも、後悔した後に「帰るべき場所」を間違えたことです。彼は祭司長たちのもとにではなく、十字架のイエスさまのもとに帰るべきだったのです。


 この「ユダさえも救われる」という教えに対し、「それではすべての人が救われるのであって、自分が信仰を持つ意味がない」と反発する気持ちが私たちの中にもあります。奥田牧師はそれを「自分教」と呼びました。自分が救われることを信仰の原点とし、他人の赦しを喜べない心。それは、十字架にではなく、自分の確かさや信仰の厚さに立脚してしまっている姿だと語ります。しかし、キリスト教はそもそも「自分の救い」を至高の価値と考えていません。イエスさま自身が自分の救いを考えておられたら、十字架で死ぬことはなかったからです。


 聖書が記す十字架の場面で、主は自分を釘打つ者たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。圧倒されるような執り成しの祈りです。「お前は生きる価値がない」と自分を抹殺しようとする相手のために、なぜ赦しを祈れるのでしょうか。


 この「自分が何をしているか知らない者」とは、当時の人々だけでなく、外ならぬ私自身のことでもあります。それは、エデンの園で隠れたアダムに神が語った「あなたはどこにいるのか」という問いのように、私たちの心の奥底を射抜きます。自分が何をしているか分からない、そんな私たちのために、主は最後の祈りを捧げ、本来私たちが受けるべき罪の裁きを身代わりに背負って息を引き取られたのです。私たちがまだ「自分教」に留まり、受容欲求を丸出しにしているその最中に、イエスは既に十字架で死んでくださったのです。


 十字架の下で、議員たちは主を嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うが良い」。彼らは罵りながら、実は神の愛の本質を正確に言い当てていました。「他人を救うが、自分を救わない」。それこそが救い主の姿なのです。もしイエスさまが自分を救おうとされたなら、私たちは自分の罪の深さに気づくことさえできなかったでしょう。主は、自分が何をしているか知らない者のために、絶叫の叫びをあげて苦しみ、自分を捨てて執り成しを続けてくださいました。


 ここに、私たちの信仰の立ち位置(自己成立基盤)があります。私たちは、自分の正しさの上に立っているのではありません。他人を救うために自分を救わなかった、あの十字架のイエスさまを信じる者として私たちは立っているのです。


 そうであるならば、私たちはもう「自分教」という価値基準を捨てることができるはずです。他者の救いを共に喜び、他者の喜びを自分の喜びとする次元へと歩み出していきましょう。十字架を通して示された神の本質が、私たちを「他者のために生きる」歩みへと押し出しています。他人を救う。それが私たちの救い主イエスさまなのです。


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