主の過ぎ越しの犠牲
更新日:10月6日
出エジプト 12:21-36

前回、私たちは出エジプト記6章から、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」という神の言葉を聞きました。十の災いが襲ってもファラオは民を去らせず、最後の災いが下る、その夜の出来事が今日の箇所です。この神の救出の業は、イスラエルの人々の行動から始まったのではありません。エジプトで奴隷とされた人々が呻き、その叫びが神に届いた。そこから始まっているのです。
モーセは長老たちに命じました。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。……鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない」(21-22節)。命じられたのは三つだけでした。羊を屠ること。その血を入り口に塗ること。そして、朝まで家から出ないこと。その夜、人間にできることは何ひとつありませんでした。自分の力も、自分の正しさも、役に立たない。ただ、塗られた血のもとにとどまるほかなかったのです。私たちの人生にも、そのような夜があるのではないでしょうか。手を尽くしても何も変わらず、ただ朝が来るのを待つしかない夜です。
「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される」(23節)。主が御覧になったのは、家の中にいる人間ではありません。塗られた血です。その人がどれほど立派かを、神は御覧になってはいないのです。苦しむ民を、神は見捨てられませんでした。しかし、救い出すために支払われたのは、民の努力ではなく、一匹の小羊の命だったのです。
「これが主の過越の犠牲である。……我々の家を救われたのである」(27節)。今日の説教題は、この言葉から取りました。民はひれ伏して礼拝した、と続きます。自分では何ひとつできなかった者が、神の前にひれ伏す。ここに、私たちの礼拝の原点があります。一方で、「大いなる叫びがエジプト中に起こった」(30節)とも記されています。救いの物語の裏側で、泣いている人がいます。他人の苦しみから目をそらしたまま、自分たちの救いだけを喜ぶことはできません。では、入り口の内側にいた人々は正しかったのでしょうか。そうではありません。内側と外側を分けたのは、人間の優劣ではなく、ただ小羊の血があったかどうかです。一皮むけば、私の内側にも同じものがあります。私たちもまた、神の前に「わたしは罪人です」と申し上げるところから始めるほかないのです。
あの夜、血を流したのは小羊でした。小羊は、何も悪いことをしていません。犠牲には、いつもこの理不尽さがあります。そして十字架において、血を流されたのは、神ご自身の独り子でした。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(コリントの信徒への手紙一5章7節)。
過ぎ越してくださった方が、過ぎ越されるための犠牲そのものとなられた。主イエスは、私たちの立つべき裁きの場に代わって立ってくださったのです。神の本質は、人の罪を背負い、痛みを引き受ける愛にあります。「主の過ぎ越しの犠牲」とは、私たちが払った犠牲のことではなく、主が払ってくださった犠牲を指しているのです。今日、説教の後に、私たちは主の晩餐にあずかります。あの夜、鴨居に血が塗られたように、この食卓で、私たちは主の血によって贖われた者とされます。この食卓に着く資格のある者は、一人もいません。ただ、招かれて着くのです。すでに、あなたはキリストの血によって贖い出されたのです。だから、恐れなくてよいのです。だから、隣人の重荷を共に担うことができるのです。過ぎ越しの犠牲となられた主と共に、新しい一週間へと歩み出してまいりましょう。
広島教会 播磨聡牧師
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