ローマの信徒への手紙3章9-31節
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

キリスト教の根幹には、信仰義認(神が罪ある人間を信仰によって義と認める)があります。それと対比されるのは、善行することによって救われるという考えです。しかし残念ながら、善意からの言葉であったとしても相手を傷付けたことや、正しい事をしようとしても他の誰かの気持ちを踏みにじってしまった経験があるのではないでしょうか。
正しく生きようとしても、理想のままに生きることは難しく、隣人とぶつかることは少なくありません。ましてや自分さえ良ければという社会では周囲と衝突し、小さく弱くされた人々が迫害されてしまいます。「自分が正しい」という思いを手放して、自分や他人ではどうしようも出来ない罪の現実を認めることが重要です。神に助けを求める時、命ある関係を取り戻してくださる主の救いを見出すでしょう。神の義は、イエスの十字架によって与えられる本来の姿、神と人との関係性の回復です。関係性を破壊する罪の奴隷になっていた人々を買い戻すために、贖いの代価としてイエスは血を流されたからです。それは神の恵みによって、差別なく全ての人に無料で与えられました。イエスの真実は、私たちが罪人であるにも関わらず、義と認めてくださる命の道なのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 2月16日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙2章17-3章8節
もし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

アイデンティティとは、他の人と異なる独自の性質や特徴のことです。ユダヤ人は神から律法(聖書の言葉)を与えられたことを誇りにし、神と先祖アブラハムとの間で交わされた約束を大切にしていました。その内容は、民は神から命じられた律法を守り、神は民を祝福して命を与えるものでした。そして契約締結の印として、割礼の儀式が命じられたのです。
しかし月日の経過とともに、割礼が救いの条件のように考えられるようになりました。どんなに悪い事をしても、割礼を受けているから安心だと勘違いしてしまえば、約束は軽んじられていきます。
立ち帰るために重要な事は、どんなに大きな罪を犯しているのか自覚すること、そして自分の力ではなく神に頼ることです。約束を破ったことに気付いたならば、謝るのが当然でしょう。もし赦してもらえたとしても、自分の行いではなく、相手の憐みによるものです。福音とは、もう既に自分の代わりに神に謝り、罪を贖われた方がいるという知らせです。イエス・キリストが十字架で流された血によって、新しい契約が結ばれ、救いの道は拓かれました。救いは、人の努力や行動によるのではなく、神の愛によって与えられている、計り知れない恵みなのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 2月9日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙2章1-16節
神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

インターネットの普及により、情報の取得と拡散は格段に早くなりました。お店の口コミ、Xの裏垢、これまで隠されていた事柄や本音も明るみに出てきています。しかし、大量の情報が溢れている現代において、真偽の判断は益々難しくなっていると言えるでしょう。
それでも神様は真実を知っています。裁きの日に、正しい行いには良い報いを、悪しき行いには怒りの報いを与えられます。しかしニュースを見れば、力を持つ側が小さな声を無視し支配し搾取しているように見えることがあります。神様の裁きはいつになれば行われるのでしょうか。神様はまるで執行猶予の期間を与えるようにして、罪人が悔い改めて立ち返ることを待っておられるのです。
定められた日には、人々の隠された事柄までキリスト・イエスを通して裁かれます。ここには二つの意味が込められているでしょう。一つ目は、裁判官としてイエスが私たちを裁くこと。二つ目は、私たちに対する判決が、もう既にイエスを通して成し遂げられていることです。イエスが受けられた十字架の死によって、私たちの罪は既に裁かれたことが明らかになる日がやって来ます。それこそ、キリスト者が告げ広めてきた福音の知らせなのです。
音声メッセージ