使徒言行録 22章22-30節
「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」
はたして神様は平等で公平なお方でしょうか。平等とは一律に等しいこと、公平とはえこひいきのないことです。神様が一人ひとりに与えられた人生、その区切りとなる死は誰しもおとずれるため平等です。しかし生まれ育った環境、身体能力、知能や才能はそれぞれ異なるため不平等とも言えます。神様による罪の裁きは公平に与えられることでしょうが、ある個人やある民族を選び、特別な使命を与えられるため不公平でもあるでしょう。
パウロは、ローマの市民権を持ち、当時の特権階級に属していました。そのパウロを神様は選び、異邦人に福音を宣べ伝える者として派遣されました。しかしユダヤ人たちはこの話を聞いた時に、激しく怒り拒絶したのです。例えるならば、自分が受け取っていた親の愛情が、他の子に奪われてしまうような感覚に陥ったのでしょう。しかし神様の選びは、恵みを自分だけで独占するのではなく、その人や民族を通して主の祝福と栄光が広がっていくようにとの願いが込められていました。それはアブラハムを通してユダヤ民族に、イエス・キリストを通して全ての人々へと広められました。このようにして神様の愛は全ての人々へ平等に注がれ、救いの道は公平に与えられているのです。
音声メッセージ
使徒言行録 22章1-21節
『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。
相手に何事かを伝えたい時、言葉や文字や態度で示すことでしょう。特に言葉が重要となる場面の一つとして裁判の席が思い浮かびます。証人として見聞きした物事を伝えることも、誤解を晴らすために弁明しなくてはならない事柄も、命が不当に扱われている際には訴え出る必要もあることでしょう。
パウロはエルサレム神殿にいる人々に向かって、イエス・キリストを証します。それは空想ではなく、事実としてパウロに出会われたイエスを語るのです。出会いは人を変える力があります。キリスト者を迫害するための権限をもって派遣されたパウロが、逆にキリスト者に変えられた程です。神殿にいた人々はパウロのことを律法違反者であり、裏切り者だと思っていました。だからこそパウロは彼らに向かって弁明します。大切な人達とのすれ違いを解消するため、相手に共感し寄り添い、同じ土壌で育まれた共通の過去を振り返ります。その上で衝撃的な恵みとして与えられたイエスとの出会いを紹介し、救われた喜びによって変えられたことを語ります。その主によって新しい使命が与えられ、今度はキリスト者を迫害するためではなく、イエスを宣べ伝える者として異邦人の所に遣わされたことを証言していくのです。
音声メッセージ
使徒言行録 21 章 17-40 節
あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
相手と理解し合うのは、そう簡単なことではありません。誤解される悲しみに直面することや、逆に勘違いや思い込みから誤解してしまうこともあるでしょう。すれ違いを解消しようとしても、人の数だけ正しさはあります。それでも無理矢理に、自らの正しさに相手を合わせようとするならば、誰かが傷付く結果が待っています。
パウロは何度も誤解を受けました。熱心に律法を守るクリスチャンからは、パウロが律法を蔑ろにしていると思われていました。なぜならパウロは律法に正しく生きることが救いの条件ではなく、イエス・キリストの恵みによる救いを語り伝えていたからです。それでも彼は、ユダヤ人が律法を大切に守ることも、異邦人が律法ではない形で神様に応答することも、どちらも尊重していたのです。他にも、人違いをされて暴力を振るわれたことも、犯罪者に間違えられて逮捕されたこともあります。それでも彼は、相手の思いに寄り添いながら行動しました。絡まった糸がほぐれ理解し合える着地点は、自分の正義を手放した先にあります。それは短絡的に相手に合わせることではなく、心を神様に近づけていくことです。その中にこそ、主の栄光と御業は現わされるのではないでしょうか。
音声メッセージ