ヨハネによる福音書 20 章 1-18 節
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
大切な人を葬ったお墓が、知らない内に空っぽになっていたらどうなさるでしょう。おそらく心の中は混乱と嘆きと怒りが渦巻きながら、急いで家族や警察に知らせるのではないでしょうか。マリアもまた墓が空になっていることに気付き、弟子たちの所に走っていって知らせました。弟子たちが墓を調べてみると、遺体を包んでいた亜麻布だけが不自然にも残されていました。もしも墓荒らしの仕業ならば、布を解く必要もなければ、証拠を残すこともありません。弟子たちは一通り調べて帰りましたが、マリアは墓で泣き続けていました。
その場所にイエスは来られますが、マリアはイエスだと気付きません。なぜなら暗闇の墓の中で死んでいるイエスを求めているので、朝日に照らされ生きておられるイエスは意識の外にあるからです。それは私たちの常識でもあるでしょう。イエスは「マリア」と名前を呼びます。呼びかけに応えて 180 度向きを変える中で、復活のイエスとの出会いが与えられました。それは闇から光への道しるべとなり、死から命への方向転換となるのです。そして今度は喜びの知らせを伝えるため、マリアは弟子たちの所へと送り出されていきました。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 19 章 16b-30 節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
今の時代、人それぞれに痛みを抱えていることでしょう。身体の痛み、心の痛み、精神的な痛み、社会的な痛みがあります。学校や会社や家庭でも、人間関係のすれ違いから傷つけ合ってしまうこともあります。力の矛先が自分に向かう人もいれば、他者に向かう人もいます。そのような中で、なぜ私がこの苦しみを味わうのかと嘆くこともあるでしょう。人生の意味や目的など、真理を求める心が育まれるかもしれません。イエスもまたこれらの痛みを抱えながら、十字架を背負われました。
教会のシンボルとも言える十字架、それは単なる死刑ではありませんでした。長時間の身体的な痛みに加え、大衆に裸を見られ罵倒される精神的な苦しみ、家族や弟子までも周りから非難される社会的な痛みもあります。十字架の目的は、ローマに歯向かう者はこのような痛い目に遭わせるぞ、という脅しだったからです。イエスは自ら十字架を背負われました。神の国の王として、すべての国民の罪を背負い、贖い出すためです。贖いには、没落して手放された一族の土地や人々を買い戻す意味が含まれます。そして主イエスは十字架上で「成し遂げられた」=「完済した」と宣言してくださったのです。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 19 章 1-16a 節
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
「自分たちが生き延びるために、イエスを殺害するしかない」このように意思決定した祭司長たちは、イエスを捕らえます。そして民衆を巻き込んだ群集心理(衝動性・暴力性・自己抑制の喪失)の中、強行的に十字架刑を訴え出ました。総督ピラトは、ローマ法に則ってイエスを取り調べますが、罪を見出すことはできません。そこでユダヤ人指導者たちの顔を立て、鞭打ち刑にしたのです。先端に金属片や動物の骨が括りつけられた鞭により、イエスの肉体は引き裂かれ、血が流れます。さらに兵士たちは、イエスに茨の冠と紫の服を着せて、まるで王様のように装いつつ侮辱しました。それでも狂気に満ちたユダヤ人たちは十字架刑を求め続け、脅しに屈したピラトは最終的にイエスを引き渡したのです。
イエスは不当な裁判結果にもかかわらず、黙って判決を受け入れます。なぜ反論しないのでしょう。偶然にもそれは過越祭の準備の日、贖いの供え物である小羊が屠られる日でした。洗礼者ヨハネはイエスを見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ 1:29)と語ります。多くの人々の罪の贖いとして、神の子イエスは十字架へと向かって行ったのです。
音声メッセージ