ローマの信徒への手紙13章1-14節
人を愛する者は、律法を全うしているのです。

マザー・テレサは、もっとも貧しい人々に仕えることを神からの召命として受け取りました。インド・コルカタで、死に行く人々や、誰からも見捨てられた人々の世話を始め、名前を呼び、身体を洗い、相手の宗教を尊重して弔いを行いました。最後の瞬間まで、その人が神の愛を感じられるように仕えて寄り添ったのです。その働きはやがて社会福祉として政府からも認められるようになりました。
聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、簡単ではないことを私たちはよく知っています。人から命じられた義務感では心が乾き、やがて疲れ果ててしまうでしょう。パウロが語る福音は、まず初めに神が与える救いの喜びがあり、そして次に救われた者として神の愛に生きるようにと招くのです。返しきれない程の恵みを受けたからこそ、神へ恩返しをするかのように、隣人に愛を伝えるのです。それは今までとは異なる歩み、主にある新しい命と言えるでしょう。なぜなら、自分自身の言葉や行動が、だんだんと主に似たものへと変えられていくからです。イエスの愛と赦しを受け取る中、月が太陽の光を受けて輝くように、私たちも光を放つように変えられていきます。それが光の武具なるイエス・キリストを身にまとい、愛によって律法を全うする生き方となるのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2025年7月20日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙12章9-21節
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

友人の成功を素直に喜べなかったこと、悲しんでいる人にどんな言葉をかけたらよいか分からなかったことはありませんか。逆に、自分が悲しい時に「私も分かるよ」と言われても、「あなたに何が分かるの」と反発してしまうこともあるかもしれません。念願の賞を獲得しても、嫉妬を恐れて誰にも言えないこともあるでしょう。他者の気持ちに寄り添うことも、自分の心を正直に打ち明けることも、私たちには難しいものです。それでも誰かの心に目を向け、たとえ何もできなくても寄り添おうとする中で、喜びが増し加えられ、悲しみが和らげられることもあるのです。
共に生きるというチャレンジを、自分の力だけでやり抜こうとしても、どこかで限界が訪れます。燃え尽きてしまったり、心がからっぽになってしまったりするのです。だからこそ、私たちは主に祈り求め、聖霊なる神の油注ぎによって新しく燃やされていきましょう。主の御名の一つ「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味です。主は、私たちの喜びも悲しみも、流した全ての涙も共に担い、歩んでくださいます。この主の愛に生かされて、今日もまた、隣人と共に歩む一歩へと踏み出してまいりましょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2025年7月13日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙12章1-8節
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

神社ではお賽銭、お寺ではお布施や寄付があるように、教会では献金があります。献金は、神からの恵みに応答して生きることを表しています。今与えられている場所や身体、日常の歩みは、当たり前ではないと受け止めているからです。大切なのは、どれだけではなく、どのような思いでささげるかということではないでしょうか。
更に聖書は、お金だけでなく体そのものを神にささげる生き方へと招いています。環境や能力、性格や時間もまた、神からの贈り物だからです。一人ひとりに与えられている賜物は異なります。だからこそ私たちは、強みと弱みを補い合い、支え合って生きるようにと集められているのです。
イエスは御自身の豊かさを、パンを分かち合うように、一人ひとりに注いでくださいました。主を見習って、物事の本質を見つめる人がいます。主のように優しく語りかける声もあるでしょう。そして主の手は、貧しい人や痛んでいる人へと差し伸べられました。主は全ての人の居場所となるために、憐れみ寄り添い、共に歩んでくださったのです。私たちは欠けだらけの存在です。その欠片が組み合わされて一つとなる時、生けるキリストがこの世界に現され、主への礼拝がささげられていくのでしょう。
音声メッセージ