ヨハネによる福音書 11 章 45-57 節
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
正義はどこにあるのでしょう。正しい事をしようとしても思いが踏みにじられ、失望してしまうこともあります。やられたからやり返す、これこそ正義であると考える人もいます。ともすると多数派や権力者が幸福を感じる方向に社会が進み、その結果、少数派が虐げられてしまう現実もあります。そのため公平さや道徳性も、正義を問う中で重要な視点となります。一人一人の正義は異なります。だからこそお互いの言葉に耳を傾け、尊重し合いながら選び取っていくのです。
当時のイスラエルはローマの支配下にありつつも、一定の自治権は認められていました。それが最高法院であり、私たちでいう国会と裁判所の働きの一部を担っていました。臨時の議題は、巷で話題のイエスという男の処遇です。多くの民衆は、イエスの教えと奇跡を目にして、ダビデのような王様の再来を期待しました。しかしローマの支配下にある状況で、新しい王様のウワサは、皇帝の逆鱗に触れかねない話題です。最悪の場合、神殿も国民も国家も失う可能性があります。そこで彼らは自らの正義に従って、イエスの殺害を決意しました。しかし神様の思いは人の思いを越えた計画で、救いをもたらす贖いの十字架だったのです。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 6 章 41-59 節
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
「いただきます」と、私たちは食事の前に感謝をささげます。生き物の命をいただいて、生きる糧にしているからです。食べる物によって体は作られ、出会いによって心は育まれていきます。私たちは愛を糧にすることもあれば、憎しみを糧にすることもできます。私たちの心と体は、何を摂取して生きているでしょうか。
キリスト教会が大切にしている儀式に、「主の晩さん」があります。パンをイエスの体として、ぶどうの杯をイエスの血として受け取ります。この出来事の中で、イエスの十字架を想起しているのです。私たちに連帯し、私たちの罪を一身に引き受けられた結果が、十字架の裁きでした。イエスの十字架の出来事を通して、私たちの罪は支払われたのです。主の晩さんに与る時、イエスが私たちを罪から救い出し、贖われたことを覚えます。そしてイエスの体と血をいただく時、私たちの内に生きておられるイエスの命と出会うことでしょう。そして同時に、私たちを引き寄せて包み込む、イエスの愛の内に、いきいきと生きる命の道を見出していきます。私たちの内側も外側も、イエスの愛と命で満たされているのです。日々この命に生かされ、命をいただいてまいりましょう。
音声メッセージ
使徒言行録 19 章 21-40 節
手で造ったものなどは神ではない
多くの人々は何かを信じて生きています。神様、自分、家族、専門家、お金、権力、経験、占い等々。日々の生活の中で頼りにしているモノと言い換えられるかもしれません。それでは自分の信仰と、他者の信仰が対立してしまった時には、どうしたら良いのでしょうか。
パウロ達の伝道により、多くの人々がキリスト者となりました。危機感を覚えたのは、地元の銀細工師で、アルテミス神殿の模型や女神像を造る職人でした。仕事が減ることを恐れ、神殿が蔑ろにされたと怒り、女神の威光が失われることを危惧した結果、パウロ達を襲って暴力により支配しようと試みたのです。問われているのは、どのような神を・どのように信じているのかです。自分の信仰の根底にあるものが、商売繁盛のご利益を求める心ならば、思い通りにいかない時に信仰を失ってしまうでしょう。また、信者の数によって、威光が変動してしまうような神様なのでしょうか。パウロ達は相手の神殿を荒らすことも、女神を冒涜することもありませんでした。銀細工師のような恐れや怒りや危惧を持たず、他者の信仰を攻撃しなかったのです。それは、生きておられる神様が恵みと愛に満ちた方だと知っており、この方の威光は決して失われないと確信していたからでしょう。
音声メッセージ