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執筆者の写真杉本拓哉牧師

裁判においても

更新日:11月13日

使徒言行録 24 章 1-27 節
「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」


アマリリス・ミニヒマワリ・アイビー
アマリリス・ミニヒマワリ・アイビー

 

 沖縄では 6 月 23 日を「慰霊の日」とし、命こそ宝であることを覚えています。この言葉の背後には、79 年前に起こされた戦争において、命が軽々しく扱われた過去があります。日本本土での決戦前の時間稼ぎとして戦いは始まり、敗戦濃厚な状況では日本兵から沖縄県民へ集団自決の命令が下されました。戦後、本土の安全保障のために沖縄はアメリカに差し出され、本土復帰した後も現在に至るまで米軍基地という負担は続いています。命の価値に上下はありません。命を道具扱いし、差別し、軽んじてよい理由など、どこにもないのです。もしも私たちが組織を維持するために、誰かの痛みに鈍感に無自覚になるのであれば、戦争の過ちを繰り返していることになるでしょう。

 パウロはローマ総督の前で、大祭司と長老たちの訴えにより裁判にかけられます。弁護人は、パウロがどれだけ危険人物か、ユダヤ教の正統派ではなく分派を教え、神殿を蔑ろにしていると訴えます。パウロは全てに反論し、総督はパウロの罪を見出しません。しかし総督はユダヤ議会の好意を得るため、2 年もの間判決を引き延ばしていったのです。道具扱いして良い人間などいません。命を慈しむ主の目が共に見ておられるのですから、良心に従って生きていこうではありませんか。


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