使徒言行録 19 章 21-40 節
手で造ったものなどは神ではない
多くの人々は何かを信じて生きています。神様、自分、家族、専門家、お金、権力、経験、占い等々。日々の生活の中で頼りにしているモノと言い換えられるかもしれません。それでは自分の信仰と、他者の信仰が対立してしまった時には、どうしたら良いのでしょうか。
パウロ達の伝道により、多くの人々がキリスト者となりました。危機感を覚えたのは、地元の銀細工師で、アルテミス神殿の模型や女神像を造る職人でした。仕事が減ることを恐れ、神殿が蔑ろにされたと怒り、女神の威光が失われることを危惧した結果、パウロ達を襲って暴力により支配しようと試みたのです。問われているのは、どのような神を・どのように信じているのかです。自分の信仰の根底にあるものが、商売繁盛のご利益を求める心ならば、思い通りにいかない時に信仰を失ってしまうでしょう。また、信者の数によって、威光が変動してしまうような神様なのでしょうか。パウロ達は相手の神殿を荒らすことも、女神を冒涜することもありませんでした。銀細工師のような恐れや怒りや危惧を持たず、他者の信仰を攻撃しなかったのです。それは、生きておられる神様が恵みと愛に満ちた方だと知っており、この方の威光は決して失われないと確信していたからでしょう。
音声メッセージ
【ヘルマン・ホイヴェルス 人生の秋より】
主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(Iコリント 1:8-9)
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ 46:3-4)
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架を担う。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても妬まず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことの故郷へ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。
『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と
使徒言行録 19 章 11 節-20 節
悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
聖書において「知る」という言葉は、体験的な事柄として多用されます。例えば、レモンの酸っぱさを知識として知っていても、食べてみなければ本当の意味で知ったことにはならないでしょう。プロの選手がいとも簡単そうに技を繰り出していても、やってみなければその難しさを知ることはありません。人間関係においても、知ったつもりになっていることが、いかに多いことでしょうか。
神様との関係においても同様で、知識だけでなく体験として、神様を知ることが大切になります。そして神様は一人一人の名前を呼び、関係性を築いてくださるのです。しかし、そのような歩みへと進もうとする時、逆の力が働くこともあります。聖書は悪霊の存在を記録します。悪霊にとって、自分の身が脅かされ、住処が追われてしまうことは死活問題なので、神に近づく者を容赦しません。それと同時に、悪霊に都合のよい行動をしている限り、攻撃を受けることも無いのです。私達は知らなくてはいけません。人間よりも悪霊の方が強く、いかなる悪霊よりもイエス・キリストに力があり、勝利なされた方であることを。この主を頼る時、神に知られている自分に気付かされ、神を知る出来事へと導かれるのです。
音声メッセージ