- 杉本拓哉牧師

- 2025年3月23日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙5章12-21節
一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

止揚(アウフヘーベン)とは、哲学の分野から始まった考え方です。矛盾や対立のある二つの要素をぶつかり合わせることを通して、一つの発展的な解決策を見出します。A案とB案をそのままでの形では否定しつつも、それぞれの大切な要素を活かして、新たなC案を生み出す出来事とも言えるでしょう。
イエス・キリストの場合においても止揚が見られます。神に敵対し罪と死に支配された人々に対する神の愛と、罪に対して怒りをもって裁かざるを得ない神の義とがぶつかり合いました。そこで成し遂げられたのが、十字架の和解だったからです。罪に対する裁きは十字架のイエスが引き受けられました。そして神の愛のゆえに、イエスの義が人々に与えられました。その結果、罪人と神との関係性が回復されることになったのです。
アダムから始まった罪の歴史は、イエス・キリストによって新しく恵みの歴史へと転換しました。一つの罪が死をもたらすことになったように、一つの義が命を与える恵みとなったからです。主の恵みは、善い行為に対する報酬ではなく、一方的に与えられるプレゼントです。封も開けずに押し入れにしまい込むことも可能ですが、それを豊かに受け取るならば、永遠の命を見出すことになるでしょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2025年3月16日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙5章1-11節
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。

あなたにとっての「誇り」は何でしょうか。家族や恩師や友人、伝統や文化、何事かを成し遂げた経験、自身の価値観や生き方など、自慢や喜びに繋がるものを思い浮かべたかもしれません。それらは自分が生きる上での基礎とも言えるでしょう。
パウロの誇りは、神の素晴らしさを体験するという希望、将来あずかる恵みの約束にありました。それは立派な信仰生活によって獲得したものではなく、イエスの贖いと復活によって与えられた、神との関係性の回復に基づくものです。罪は人と神とを引き離し、関係性を傷付けていくものです。それでも、一方的な恵みによって与えられた神との和解が、救いの根拠となるのです。
通常、苦難を誇ることはしません。迫害や困窮や災害が喜びにはなりません。しかし、苦難の中で神を見出す人も少なくないのです。自分ではどうしようもできない事柄に直面しても、神を頼りとする道は開かれています。神との交わりを深め、神の力を体験し、神の栄光が分かち合われる機会となるからこそ、パウロは苦難をも誇ると断言します。自慢するためではなく、共に救いの喜びにあずかるため、十字架の死から復活の命を与えられる主を誇りとするのです。
音声メッセージ
ローマの信徒への手紙4章1-25節
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

旧約聖書の主要人物として、アブラハムとダビデがいます。前者は神が約束された土地に移り住むため旅立った、信仰と契約を象徴する人物。後者はイスラエル二代目の国王で、国家としての基礎を確立し、王と預言者を兼ね備えた人物。そしてどちらもイエスの系図に名を連ねています。
パウロは聖書を引用して、神から義と認められた彼らの共通点を示します。アブラハムは夫婦共に高齢となり、子どもを宿せない状態でした。しかし神の約束の言葉を信じて義と認められ、息子が与えられました。ダビデは部下の妻を権力によって支配し、更にその罪を隠蔽するために部下を戦死させたのです。そのような罪を犯した者は死罪であると、ダビデ自身が認めましたが、神に悔い改め義とされ、罪は覆われ赦されたのです。両者は神から義と認められ、死からの命が与えられました。
神から義と認められるとは、契約が正しく守られている状態であり、関係性が回復し、あるべき姿に戻されることです。イエス・キリストは罪の赦しを与えるために十字架の死に渡され、人々を義とされるため復活の命にあずかりました。神の恵みの言葉は、今日も私たちを死から命の希望へと招いてくださるのです。
音声メッセージ