コリントの信徒への手紙二 4 章 1-18 節
主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

死と生についての考え方を死生観と言います。死んだらどうなるのか思いを巡らすことは、今どのように生きるのかという意識に繋がります。キリスト教における死生観は、生は神から与えられるものであり、死もまた神がその人を召し上げることであると考えます。主なる神が命の主権者であるからこそ、たとえ死が迫ってきても信頼し続けることが許されるのです。そのことがはっきりと人間に知らされたのがキリストの復活の出来事であると、クリスチャンは信じています。人々の罪を担い死なれた方が復活なされたからこそ、私たちもまた死を越えた命に生かされる希望が与えられているのです。
この驚くべき喜びの知らせを、人々を用いて伝えようと神は計画なされました。そのために語るべき言葉、立ち上がる勇気、必要なもの全ては聖霊なる神様によって備えられていったのです。人間という簡単に壊れてしまうような土の器に、宝物なる神の栄光の光は届けられました。内側にある輝きは、外側までも照らしていきます。それは神の霊の働きであり、神によって与えられる新しい命の光となるのです。この神を褒め称えるため、栄光の源である方へ、礼拝は捧げられてきたのです。
音声メッセージ
使徒言行録 23 章 1-11 節
その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

自分がひそかに抱えている本心を、打ち明けるには勇気が必要です。一推しのアイドル・多くの時間を注いだ趣味・育んでいる夢・病気・好みなど、告白することをカミングアウトと言います。もしも本心を伝えるならば、今までとは関係性が変わってしまうのではないか、白い眼で見られ嫌われてしまうかもしれない、恐れや不安が湧いてきます。少数派の思いは簡単に踏みにじられてしまうことがあるからです。現代においてもキリスト者と知られれば、迫害されてしまう家庭や地域や国家も存在します。
パウロは元々律法に熱心なユダヤ教徒であり、キリスト者を迫害していました。しかしイエスとの出会いによって変えられ、諸外国への宣教という使命が与えられ出かけて行きます。それは自分の力ではなく聖霊なる神の力による旅路でした。様々な経験を重ねたパウロに、古巣であるエルサレムにて福音を分かち合う機会が与えられます。精一杯パウロは言葉を尽くして証したのですが、聞いた相手は怒り狂い、思いは届けられません。おそらく彼は悲しみ落ち込んだことでしょう。それでもイエス様はパウロの傍に立ち、力強い証だったことを認め、勇気を持って宣べ伝えるように励まし、次なる場所へと派遣されていったのです。
音声メッセージ
使徒言行録 22章22-30節
「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」

はたして神様は平等で公平なお方でしょうか。平等とは一律に等しいこと、公平とはえこひいきのないことです。神様が一人ひとりに与えられた人生、その区切りとなる死は誰しもおとずれるため平等です。しかし生まれ育った環境、身体能力、知能や才能はそれぞれ異なるため不平等とも言えます。神様による罪の裁きは公平に与えられることでしょうが、ある個人やある民族を選び、特別な使命を与えられるため不公平でもあるでしょう。
パウロは、ローマの市民権を持ち、当時の特権階級に属していました。そのパウロを神様は選び、異邦人に福音を宣べ伝える者として派遣されました。しかしユダヤ人たちはこの話を聞いた時に、激しく怒り拒絶したのです。例えるならば、自分が受け取っていた親の愛情が、他の子に奪われてしまうような感覚に陥ったのでしょう。しかし神様の選びは、恵みを自分だけで独占するのではなく、その人や民族を通して主の祝福と栄光が広がっていくようにとの願いが込められていました。それはアブラハムを通してユダヤ民族に、イエス・キリストを通して全ての人々へと広められました。このようにして神様の愛は全ての人々へ平等に注がれ、救いの道は公平に与えられているのです。
音声メッセージ