使徒言行録 17章1-15節
ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
人には正義感があります。それに反する出来事に直面する時、正面から向き合うこともあれば、避けることも選択肢となります。キリスト教の最初期、信者は迫害に遭い、逃げた先々で福音を宣べ伝えていきました。パウロもイエスに出会う前は、キリスト教徒を迫害しました。自分の聖書理解や信仰からかけ離れた“間違った教え”を放置することはできず、正義感から行動していたのでしょう。
パウロたちがヨーロッパ伝道をしている時、福音を受け入れる人もいれば、拒絶して迫害する人も出てきました。同じ聖書を読んでいても、正反対の行動があらわれたのです。もしかしたらこの違いは、聖書の読み方、その姿勢にあるのかもしれません。ある町の人々は、素直に熱心に聖書を調べていました。神様の正しさを求め、今の自分に何が語られているのかを、聖書から聞いていったのです。また別の町の人々は、今までの価値観を絶対化してしまったのでしょう。自分の正しさを後押しするものとして、聖書を引用することも可能なのです。つまり、神様を中心に自分が近づいていくのか、自分を中心に神様を合わせようとするのか、僅かなようで大きな違いがあります。今も生きておられる神様にたえず聞いてまいりましょう。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 12 章 20-36 節前半
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
一年の始まり、地震と事故の悲しいニュースが届きました。主の憐みと慰めをお祈りいたします。命が失われてしまうことは、身近な人にとって絶望的な出来事かもしれません。しかし、イエス・キリストは死を越えた希望を語ります。
イエスは権力者らから目を付けられ、命が脅かされていました。もしかしたら他の地域に逃れることで、十字架にかけられずに済んだのかもしれません。しかし、神様の栄光が現わされる時が来たと言うのです。
作物でも種を植える時があり、実りを収穫する時があります。イエスの命という種が、地に落ちて墓に葬られるからこそ、新たな命に芽吹く時がやってきます。十字架の死を通らなければ、復活の命は与えられないのです。その時、一粒の種は繋ぎ合わされた多くの命と共に、収穫の恵みにあずかるようになるのです。植物には光が必要です。主の栄光が、太陽の光のように、命を育み成長させてくださいます。だからこそ、光あるうちに光を受け取り、生かされていこうではありませんか。新たな時代がイエスによって始まりました。この福音が私たち一人一人に届けられているのです。
音声メッセージ
使徒言行録 16章16-40節
パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
「自由」とは辞書によると、①心のままであること、②責任をもって何かをすることに束縛や強制などないこと、とあります。普段の生活でも「~しなければならない」と思い込んだり、誰かに押し付けたりする時、私たちは自由ではないのでしょう。
パウロたちは、占いの霊に取りつかれた女奴隷に対して、イエスの名によって解き放ち、自由な心を取り戻されました。しかしこの出来事は、占いによって利益を得ていた主人らの怒りを買うこととなり、ムチ打たれ牢屋に入れられてしまいます。真夜中頃、パウロたちが賛美し祈りをささげていると、大地震によって鎖は解かれ扉は開かれました。しかし彼らは、脱獄せずにその場に留まり続けたのです。もしも逃げていたならば看守の命は失われていました。牢屋に囚われていても、パウロたちには自由があったのです。そしてこの自由な選択によって、失われかけていた一つの命が救われ、家族の救いに繋がっていったのです。新しい一年も、主が与えて下さった自由を生きてまいりましょう。
音声メッセージ