使徒言行録 22章1-21節
『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。

相手に何事かを伝えたい時、言葉や文字や態度で示すことでしょう。特に言葉が重要となる場面の一つとして裁判の席が思い浮かびます。証人として見聞きした物事を伝えることも、誤解を晴らすために弁明しなくてはならない事柄も、命が不当に扱われている際には訴え出る必要もあることでしょう。
パウロはエルサレム神殿にいる人々に向かって、イエス・キリストを証します。それは空想ではなく、事実としてパウロに出会われたイエスを語るのです。出会いは人を変える力があります。キリスト者を迫害するための権限をもって派遣されたパウロが、逆にキリスト者に変えられた程です。神殿にいた人々はパウロのことを律法違反者であり、裏切り者だと思っていました。だからこそパウロは彼らに向かって弁明します。大切な人達とのすれ違いを解消するため、相手に共感し寄り添い、同じ土壌で育まれた共通の過去を振り返ります。その上で衝撃的な恵みとして与えられたイエスとの出会いを紹介し、救われた喜びによって変えられたことを語ります。その主によって新しい使命が与えられ、今度はキリスト者を迫害するためではなく、イエスを宣べ伝える者として異邦人の所に遣わされたことを証言していくのです。
音声メッセージ
使徒言行録 21 章 17-40 節
あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。

相手と理解し合うのは、そう簡単なことではありません。誤解される悲しみに直面することや、逆に勘違いや思い込みから誤解してしまうこともあるでしょう。すれ違いを解消しようとしても、人の数だけ正しさはあります。それでも無理矢理に、自らの正しさに相手を合わせようとするならば、誰かが傷付く結果が待っています。
パウロは何度も誤解を受けました。熱心に律法を守るクリスチャンからは、パウロが律法を蔑ろにしていると思われていました。なぜならパウロは律法に正しく生きることが救いの条件ではなく、イエス・キリストの恵みによる救いを語り伝えていたからです。それでも彼は、ユダヤ人が律法を大切に守ることも、異邦人が律法ではない形で神様に応答することも、どちらも尊重していたのです。他にも、人違いをされて暴力を振るわれたことも、犯罪者に間違えられて逮捕されたこともあります。それでも彼は、相手の思いに寄り添いながら行動しました。絡まった糸がほぐれ理解し合える着地点は、自分の正義を手放した先にあります。それは短絡的に相手に合わせることではなく、心を神様に近づけていくことです。その中にこそ、主の栄光と御業は現わされるのではないでしょうか。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 2024年4月28日
- 読了時間: 2分
使徒言行録 21章1-16節
わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。

教会用語で「御心」という言葉があります。神様の心という意味ですが、クリスチャンは聖書を読んだり、祈りを献げたりする中で、神様の思いを尋ね求めます。親しい関係の相手でも、言葉にしなければ思いは伝わらないものです。思い込みは、すれ違いのもとであることは言うまでもありません。コミュニケーションが大切であることは、神様との関係においても同様です。
時に神様は、預言として将来起こり得る可能性を伝えたり、幻を通してビジョンを見せたりすることがあります。パウロと幾人かの人々に、聖霊の導きにより一つの幻が与えられました。それはエルサレムでパウロが捕らえられ、苦難に遭うというものでした。全く嬉しくない将来の展望です。友人たちはパウロを引き留めますが、パウロは命よりも大切なものを見つめ、突き進もうとします。たとえ命を失うとしても、イエス・キリストの福音が届けられることに価値を見出だしていたからです。友の命を惜しみ、引き留めるのも愛であり、主からの使命に生きることも愛です。愛が対立しているような中にあって、自分の思いだけでなく、相手の思いだけでなく、「御心がなりますように」と、神様の思いのもとに一致する祈りが献げられました。
音声メッセージ