- 杉本拓哉牧師
- 9月21日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 3章1-17節
「契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」

私たちの人生は、初めての事柄の連続かもしれません。進学や就職、結婚や子育て、病気や老いや死。経験や知識だけでは対応できない、初めての出来事に立ちすくむこともあるでしょう。自らの力では越えることの出来ない困難な場面において、私たちは何を頼りにするでしょうか。
イスラエルの民は、激しく流れるヨルダン川を眼前に、三日間主の御心を尋ね求める時を持ちました。彼らは、「主の臨在のしるしである契約の箱の後に続いていくように」と受け取ります。そして、箱を担いだ祭司が一歩踏み出す時、川の流れはせき止められるのでした。水が止まり安心してから渡ったのではなく、主の約束に信頼して一歩踏み出す中、新たな道が開かれていったのです。
未知の一歩を踏み出すのは、誰しも恐ろしいことです。しかし、自分の考えよりも神さまへの思いが大きくなる時、信仰の一歩へと導かれていくのでしょう。そして困難を乗り越える時、主の約束の確かさや力強さを、ますます深く知るようになるのです。主は先立ち、共に歩み、最後の一人まで待ってくださいます。だからこそ私たちは、安心と信頼と勇気をいただき、主と共にはじめの一歩を踏み出すことができるのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 9月14日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 1章1-9節
わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

大きな仕事や新たな責任を担う時、私たちは「自分にできるのだろうか」と不安に駆られることがあります。前任者が偉大であれば尚の事、その人と比べて力や経験が不足しているように思えてしまいます。聖書に登場する人々も同じように、不安や恐れを抱いていました。
大きな仕事や新たな責任を担う時、私たちは「自分にできるのだろうか」と不安に駆られることがあります。前任者が偉大であれば尚の事、その人と比べて力や経験が不足しているように思えてしまいます。聖書に登場する人々も同じように、不安や恐れを抱いていました。
モーセの死後、ヨシュアはイスラエルの民のリーダーとなります。しかしそれは自分の力では、担うことのできない働きでした。だからこそ主を求めたのです。主もまた憐みにより「共にいる」と、約束を与えてくださいます。この関係性こそ、モーセから学んだことなのでしょう。敵や困難に立ち向かう時、主の約束を信頼して堅く立つこと。主が教えられた律法、神と人・人間関係を愛で結ぶ教えを心に刻むこと。自分の考えで右往左往するのではなく、み言葉に根ざして神の確かさを味わうこと。その日々を通して、共におられる主を体験していきます。
そしてこの約束は、モーセやヨシュアだけのものではなく、今を生きる私たちにも与えられています。人間関係のこじれや、将来への不安のただ中でも、神は共におられます。だからこそ、不安や恐れに縛られるのではなく、信頼と希望と愛をもって、今日の一歩を踏み出していくように招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 9月7日
- 読了時間: 1分
申命記 34章4-11節
主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。