- 播磨聡師
- 6月28日
- 読了時間: 2分
マタイによる福音書26章17‐25

過越の食事の最中にイエスは語られます。「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている。」この言葉に、弟子たちは非常に心を痛め、「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めました。実際、イエスが捕らえられた時、弟子たちは全員逃げ去ります。誰が裏切ってもおかしくない、そのような不穏な空気の中で、イエス様は恐怖や混乱でなく、聖書に示された神の御心として、ご自身の死を受け止めておられるのです。そして、ご自分を裏切ろうとしているユダをも食卓から追い出さず、共に座らせておられたのです。
その直後、イエス様はパンをとり、「とって食べなさい。これはわたしの体である」と語られ、パンが割かれていきました。そのパンを受け取った中には、ユダも、のちにイエス様を否認するペトロも、恐れて逃げる弟子たちもいました。イエス様はそれを知りながら、パンを割き、杯を渡されます。
ここに福音があります。私だったら、誰かが裏切ろうとしていることを知ったなら距離を置き、関係を断ちます。しかしイエスはそうされませんでした。相手が裏切る者であっても愛し抜く。これが、イエス様の愛の本質なのです。イスカリオテのユダでさえ、パンを受け取ったのです。赦されない罪はない。この食卓から排除される者はいないのです。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ
- 播磨聡師
- 6月21日
- 読了時間: 1分
マタイによる福音書23章1ー12節

今日の聖書は、十字架への歩みに近づく緊迫した状況の中でのイエス様の言葉です。イエス様は「モーセの座に座っている律法学者やファリサイ人の言うことは行い、守りなさい」と言われます。職務の権威そのものは否定していません。問題にしているのは、その座をただ自分を誇るため、承認欲求を満たすために利用している「人間のあり方」なのです。
ファリサイ派は細かい規則の束を人々の方に「フォルティオン(重荷)」として載せました。この言葉は、マタイ一一章三〇節で「私の鞭は負いやすく、私の荷は軽いからである」と、全く同じ言葉でありながら、全く違う約束として用いられています。ファリサイ派が他者の方に押し付けた荷と、キリストが「ともに担おう」と差し出して下さる荷、この違いの中にイエスの福音の核心があります。
仕えることは、義務ではなく、自由の表れです。評価されるからでも、義務だからでもなく、キリストが先に仕えてくださり、十字架で罪を赦してくださったという一方的な恵みへの応答として、互いに仕えるのです。すでに赦されている。だから、背伸びして自分を大きく見せなくていい。奉仕の形は様々あっていい。どのような小さな働きも、主にあってかけがえのないものです。
広島教会 播磨聡牧師
マタイによる福音書19章23-26

「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた金持ちの青年に対して、、イエス様は「掟を守りなさい」と語られ、さらに「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そして、私に従いなさい」と言われました。しかし青年はこの言葉を聞くと、悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからです。
ある人は、この対応は、カウンセリングの面接としては失敗だったといいます。苦悩しながら相談に来た人を突き放す言葉だったからでしょう。しかし、本当にイエス様は彼を突き放したのでしょうか。永遠の命、神の救いの業は、人間の努力によって手に入れられるものではありません。「私にはできません」という告白こそ神の憐れみと許しを必要とする信仰への出発点です。イエス様は彼をただ突き放したのではなく、信仰の原点に立つように促したと私には思えるのです。
経済的に豊かになると、自分への過信が生まれるのでしょう。しかし、永遠の命、神の救い、本当の安心、安全は、お金や自分の努力で得られるものではありません。自分にはできない、その限界の中で神に憐れみを乞うていく時に、初めて神からの約束が私たちに与えられるのです。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ