- 杉本拓哉牧師
- 8月3日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙14章1-23節
もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

相手と意見がぶつかったり、好みや価値観が異なったりすると、私たちは理解し合うことを諦めてしまいそうになります。そして、直接向かい合う代わりに、悪口を言ったり、軽蔑したり、裁いたりしてしまう、そのような弱さを私たちは抱えています。自分の考えとは違うという理由で誰かを排除し、傷つけていく先に、誰もが安心して過ごせる場所は生まれません。だからこそ大切なのは、互いの存在を認め合い、強さも弱さも受け入れていく姿勢です。その時、違いは豊かさへと変えられていくことでしょう。
聖書は、私たちが裁く側に立つのではなく、復活のイエスこそが裁きの座に着かれるお方だと語ります。そして主は、既に一つの決定をなされました。それは、私たちがどんなに不完全であっても、愛し、受け入れるという決断です。救い主は、信仰の弱さを抱えた私たちに寄り添い、隔たりを越えて、救いの道を開いてくださいました。だからこそ、私たちもまた、つまずきの種を取り除き、共に愛に生きる歩みへと招かれているのです。神の国は、違いを取り除いた場所ではなく、違いを越えて共に生きる中にあります。そこにこそ、神の義と平和と喜びとが満ち溢れていくのです。
音声メッセージ
ローマの信徒への手紙13章1-14節
人を愛する者は、律法を全うしているのです。

マザー・テレサは、もっとも貧しい人々に仕えることを神からの召命として受け取りました。インド・コルカタで、死に行く人々や、誰からも見捨てられた人々の世話を始め、名前を呼び、身体を洗い、相手の宗教を尊重して弔いを行いました。最後の瞬間まで、その人が神の愛を感じられるように仕えて寄り添ったのです。その働きはやがて社会福祉として政府からも認められるようになりました。
聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、簡単ではないことを私たちはよく知っています。人から命じられた義務感では心が乾き、やがて疲れ果ててしまうでしょう。パウロが語る福音は、まず初めに神が与える救いの喜びがあり、そして次に救われた者として神の愛に生きるようにと招くのです。返しきれない程の恵みを受けたからこそ、神へ恩返しをするかのように、隣人に愛を伝えるのです。それは今までとは異なる歩み、主にある新しい命と言えるでしょう。なぜなら、自分自身の言葉や行動が、だんだんと主に似たものへと変えられていくからです。イエスの愛と赦しを受け取る中、月が太陽の光を受けて輝くように、私たちも光を放つように変えられていきます。それが光の武具なるイエス・キリストを身にまとい、愛によって律法を全うする生き方となるのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 7月20日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙12章9-21節
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

友人の成功を素直に喜べなかったこと、悲しんでいる人にどんな言葉をかけたらよいか分からなかったことはありませんか。逆に、自分が悲しい時に「私も分かるよ」と言われても、「あなたに何が分かるの」と反発してしまうこともあるかもしれません。念願の賞を獲得しても、嫉妬を恐れて誰にも言えないこともあるでしょう。他者の気持ちに寄り添うことも、自分の心を正直に打ち明けることも、私たちには難しいものです。それでも誰かの心に目を向け、たとえ何もできなくても寄り添おうとする中で、喜びが増し加えられ、悲しみが和らげられることもあるのです。
共に生きるというチャレンジを、自分の力だけでやり抜こうとしても、どこかで限界が訪れます。燃え尽きてしまったり、心がからっぽになってしまったりするのです。だからこそ、私たちは主に祈り求め、聖霊なる神の油注ぎによって新しく燃やされていきましょう。主の御名の一つ「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味です。主は、私たちの喜びも悲しみも、流した全ての涙も共に担い、歩んでくださいます。この主の愛に生かされて、今日もまた、隣人と共に歩む一歩へと踏み出してまいりましょう。
音声メッセージ