- 杉本拓哉牧師

- 2月8日
- 読了時間: 2分
エズラ記 6章19-22節
そして七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。

人との衝突を恐れるあまりに、少しずつ距離を取り、気づけば関係性が希薄になることはないでしょうか。そのまま進めば、孤独を感じることがあるかもしれません。そのような時には、誰かと一緒に食事をしてみるといった、小さな一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。「同じ釜の飯を食べる」と言われているように、食卓は信頼や絆を育みます。たとえ気まずさやぎこちなさが残っていても、食卓に座ってみましょう。壊れかけた関係でさえ、同じ食卓から静かに回復が始まることがあるのです。
主なる神は、私たちを一つの食卓へと招いておられます。そこに集められるのは、立派な人や裕福な人だけではありません。迷い、傷つき、孤独を抱え、神の思いから離れてしまった人々をも呼び集められるのです。主を引き渡したユダも、3度繰り返し関係を否定したペトロも居ました。それでもイエスは、彼らを食卓から退けません。弱さや間違いをも受け入れ、同じパンを裂き、同じ杯を分かち合われたのです。主の食卓は、裁きの場ではなく、回復の始まりです。そのためにイエスは十字架へと向かい、裂かれた体と流された血によって、隔ての壁を取り除いたのです。命をもって備えられた主の交わりに、今日も、私もあなたも招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2月1日
- 読了時間: 2分
ヤコブの手紙 2章14-26節
もし、か兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

ナチスの時代、ボンヘッファーという牧師がいました。彼は「安価な恵みは、私たちの教会の死に至る敵である」という言葉を残しました。悔い改めることなく赦されるなら、そこに罪の自覚は生まれません。自分の罪の大きさを知らなければ、代わりにそれを負ってくださった方への感謝や驚きも起こらないでしょう。イエスを信じることは、イエスへの従順を伴います。神は十字架という大きな犠牲を支払い、罪の赦しを成し遂げられました。この神の愛こそが、私たちの生き方を変える原動力です。十字架に死ぬ者は、十字架の命に生きるように変えられるのです。
当時のドイツ教会は、神の恵みによって赦されているという信仰を持ちながらも、具体的な行動や社会的責任に結び付いていませんでした。教会は救いを語りながら、迫害や差別という現実の不正に沈黙してしまったのです。苦しむ隣人を見捨てるならば、主が生きておられる教会ではなくなります。ボンヘッファーは、そのような信仰のあり方を安価な恵みと呼び、厳しく問いかけます。高価な恵みは、神の御子の命によって与えられる全ての賜物です。そしてこの恵みは、今日も私たちに与えられています。主は私たち一人ひとりを招き続け、新しい歩みへと導いてくださるのです。
- 杉本拓哉牧師

- 1月25日
- 読了時間: 2分
箴言 3章1-12節
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

新しい季節の始まり、私たちは「今度はこうしてみよう」「次はこの道を選ぼう」と計画を立てます。けれども現実は思うように進まず、迷ったり、間違えたりすることもあるでしょう。聖書の教えを大切にしたいと願っても、「神を愛し、隣人を愛すること」は簡単ではありません。ニュースを見れば、世界でも、学校でも、職場でも、家庭でも、思いやりより対立が、信頼より疑いが、柔らかな言葉より突き刺さる言葉があふれています。気づけば私たちも、神の愛と平和、慈しみとまことから遠ざかってしまうのです。
み言葉は語ります。自分の経験や知識を拠り所にするのではなく、心を尽くして主を信頼せよ、と。自分は神ではないと認め、主人である神の想いに聞き従って歩むように。教会だけでなく、学校でも職場でも家庭でも、どんな時でも主と共に歩むように招かれています。迷いの中でも、失敗の中でも、主はあなたを見捨てずに、共に歩んでくださいます。私たちが完全だからではなく、主が慈しみとまことに富む方だからです。その手に歩みを委ねるとき、主はあなたの道を、ご自身の方向へとまっすぐに整えてくださいます。主と共に歩む日々、あなたは決して一人きりではありません。
音声メッセージ