ネヘミヤ記5章1-13節
「わたしたちはその負債を帳消しにする。」

人間関係において相手の気持ちに寄り添うことが大切だとよく言われますが、頭で理解していても行動に移すのは難しいのではないでしょうか。自分の願いが大きくなると、他者の声が聞こえにくくなるからです。幼い子どもが隣の子の玩具で遊びたくなり奪い取るのも、隣国の資源が欲しくなり戦争するのも、本質的には同じでしょう。人より強く豊かになりたいという願いも、度が過ぎれば、他者の境遇などお構いなしで奪い取ることになります。
ネヘミヤに嘆き叫ぶ声が届きます。飢饉や重税のため破綻して、財産も家族も失われてしまったという叫びです。自己責任だと、無関心でいる方が楽でしょう。しかし彼は、困窮している人々に共感して、負債を帳消しにしたのです。ここに神の義があります。神は奴隷だったイスラエルの民の叫び声を聞き、他国から救い出されました。「贖い」と表現することもありますが、親族として奴隷となった人や、売り払われた土地を買い戻す行為のことです。神が救い出し慰められるからこそ、ネヘミヤも叫び声を聞き、神に共感を示します。さらに彼の行動に共感した貴族と役人もまた、借金を免除することを誓います。神の国と神の義は、共感していくことによって広められるのでした。
音声メッセージ
イザヤ書10章20-27節
その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。

待ち時間というと退屈な印象を受けますが、楽しみにしている出来事ならワクワクしながら心待ちにすることでしょう。発売日やアトラクション、試験結果や病院での診察など、待ち時間は数分から数日に及ぶこともあります。歴史を遡れば、奴隷解放は数百年にわたり待ち望まれた事柄でした。期日が定まっていれば良いのですが、いつまで続くかわからない出来事を待つのは困難です。次第に気持ちが萎えて、諦めそうになるからです。
虐げられていたイスラエルの民も、解放してくれる救い主を期待していました。主の約束は与えられますが、苦難の道を通らねばなりません。物事がうまくいくときには、神なしでも問題ないと判断して自分勝手な道を歩んでしまいがちです。また、困難なときには神を後回しにしてしまうこともあります。それでは、どうやって希望を保ち続けることができるでしょうか。それは、先達が歩んだ歴史を自分の身に起きたこととして受け止め、神からの恵みを繰り返し心に刻むことです。主は確かに力強く、起死回生の道を切り開いてくださいました。たとえ今どのような状況であったとしても、約束されたその日、主は正義を満ち溢れさせ、私たちの重荷を取り去ってくださるのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2024年11月3日
- 読了時間: 1分
詩編 55編17-23節
あなたの重荷を主にゆだねよ

私たちは各々、信じている神に祈りをささげます。「苦しい時の神頼み」ということわざがあるように、上手くいっている時ではなく、困窮している時に祈るのが人間の現実です。しかしどこまで本気で、祈りが聞かれることを信じているのでしょう。叶ったらラッキーぐらいの感覚でしょうか。それとも祈ったら必ず願いが叶えられるのでしょうか。もし前者ならば居ても居なくても変わらないような存在の神、後者ならば祈願を叶える道具のような神として、認識しているかもしれません。キリスト教の神は、無力でもなく万能な道具でもない、人格的に関わり合う存在です。
ダビデという王様は、悩みや不安や怒りや悲しみを神に投げつけるかのように、本心で祈ります。そして主が敵から自分を助け出し、祈りに応えてくれることを体験しているので、本気で信じています。それは今まで培ってきた信頼関係を基礎とした、祈りという名の対話だからです。関係性は一朝一夕では築けません。知らない人に重要なものを託せません。しかし自分でも他人でも解決できない重荷を、信頼して神に委ねる時、力強く支えてくださる主との出会いが与えられることでしょう。
音声メッセージ