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執筆者の写真杉本拓哉牧師
使徒言行録 16章1-15節
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

花材/ハイビスカス・ 薔薇・スカーレットセージ
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 プロジェクトを立ち上げる際、目的を明確にすることが重要でしょう。それは、5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)における、「なぜ」に相当します。その思いが物事をチャレンジしていく根幹となります。目的が定まった後、期間・範囲・担当者・商品・手段などを具体的に検討し、必要な物を備えていきます。

 パウロ達による二回目の宣教旅行は、前回福音を宣べ伝え、キリスト者となった人達の所に訪問して励ますという目的でスタートしました。しかし、この計画は大幅に変更することになったのです。神様の御言葉を語りたくとも、神様の聖霊によって道が閉ざされてしまったからです。一体なぜでしょうか。私たちは一歩ずつの道のりを通して、自分たちの働きは、更に大きなプロジェクトの一部分であることを知らされます。総責任者としての神様がおられ、人の計画を越える神の計画があることに気付かされるのです。そうしてパウロ達の宣教旅行は、新たな仲間が加えられ、思いもしなかった場所にまで遣わされて行くことになりました。人を通して神様の目的はかなえられました。叫び求める切実な祈りは聞かれ、その人の所にまで喜びの知らせは届けられていったのです。


メッセージ

使徒言行録 15章22-41節
そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。

花材コスモス、ミツマタ
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 意見が対立することは良くない出来事なのでしょうか。ぶつかることを避け、沈黙を選び取ることもあるかもしれません。しかし、お互いに大切なものを尊重し合い、新たな道を尋ね求める中で、第三の選択肢を見出すこともあります。これを哲学の用語で止揚(しよう)と言います。そのためには環境が大切です。お互いに意見を言っても大丈夫だという安心感がなければ、人は口をつぐんでしまいます。そして自分の思いを絶対視することなく、対話に開かれている時、お互いの思いを越えた神の計画を見出すこともあるでしょう。

 聖書を開くと、いたるところに意見の対立が記されています。詳細に読んでみると、お互いの意見を乗り越えた結論に導かれていることもあります。パウロとバルナバは意見が衝突し、別々の道を歩むことになりました。それでも両者の目的は一致しています。その目的とは、主イエスの福音を宣べ伝え、教会を励ましていくこと。お互いに思い描いていた形ではありませんでしたが、今まで一つだった世界宣教の働きが、この時二つに倍増したとも言えるのです。主なる神様の計画は、私たちの思いをはるかに越えて、将来の希望を与えてくださいます。


音声メッセージ

使徒言行録 15章1-21節
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

花材/セイタカアワダチソウ・ポトス
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 宗教において、「救い」とは極めて重要な概念です。それは、来世か現世か、個人か集団か、自力か他力か、これらの観点により分類することができます。キリスト教における救いとは、イエス・キリストの十字架の贖いにより私たちの罪が赦されたこと、そして現在も来るべき世でも義とされること、主の命に生かされることだと定義します。つまり現世と来世の両方の視点で、個人的に、イエスという他者によって救われることを信じる宗教だと言えるでしょう。

 これらは初めから明白だったのではなく、話し合いを経て、主に聞き見出してきた教義です。今回の箇所では、自分が律法を守ることによって救いに与るのか、それともイエスという神の恵みのみによって救われるのかが論点になります。旧約聖書の律法は、例えるならば高度一万mまで到達しなければ救いがないことを教えます。律法学者はジャンプの練習をしたり、山に登ったり努力をします。イエスの救いは、まるで飛行機のように高度一万mまで引き上げてもらうようなものでしょう。自分の力では律法を守れないと絶望した人や、そもそも律法を知らなかった人にとって、このイエスの救いは希望となります。


音声メッセージ

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