使徒言行録 14章1-28節
「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」
神が人を創造したのか、それとも人の想像により神が作られたのか、哲学の分野で議論が交わされることがあります。このような問いには定義が重要となるでしょう。聖書では、全ての創造主であり、命を与え育み受け取られる主を、生きておられる神様として証しています。また人の都合で、人によって造られた神々を偶像と呼んで退けます。偶像礼拝の根底には、自己中心性があり、自らが神となる危険性をはらんでいるからです。
パウロとバルナバの第一回宣教旅行は、偶像礼拝との戦いとも言えるでしょう。キリストにある価値観は、今までの文化とは異なるメッセージを提供します。ある人は、心が砕かれると共に悔い改めへと導かれ、喜びをもって信仰に入ります。またある人は、心を頑なに自分の正しさに固執して、怒りをもって反発していきます。ある人は、心を開いたかのように見えても、自分のイメージする神の像に当てはまらなくなった時に、簡単に捨て去ってしまいます。
昔から今に至るまで、季節を与え食物を施し、恵みと喜びで満たしてくださる方がおります。死を越えて、復活の命に与り、今も生きておられるイエス・キリストに立ち帰ろうではありませんか。
音声メッセージ
使徒言行録 13章1-3、26-19節
神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
神学者カルヴァンは、「救いは既に神によって予定されており、人はそれを決して知ることができない。」と二重予定説を提唱しました。救いは、人間の努力によって与えられるものではなく、一方的な主の恵みです。そして、誰が救われるのかを人は知らないからこそ、全ての人に救いの道であるイエス・キリストを分かち合います。私たちは未来を知らないからこそ、分からないからこそ、ベストを尽くすことができるのです。神様の計画があります。しかしそれは、神様に任せっきりになり、考えることを放棄することには繋がりません。そして、もしも神様が「この人は救う、この人は救わない」と考えておられるのであれば、私たちは残念な気持ちになるでしょう。
聖書が指し示す神様は、愛なるお方です。そして人の選択を尊重されるお方です。イエスは今日も、命を与えるために人々に出会い、救いの道へと招き、手を差し伸べてくださっています。その手を受け入れることも、その手を拒絶することも、人には可能です。手を繋いでも、他の事柄に目を奪われ、手放してしまうこともあります。それでも主は、まるで迷子の子どもを見つけ出すかのように、出会い直してくださるのです。
音声メッセージ
使徒言行録 12章1-19節
教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
人は理不尽な出来事にどのように立ち向かえば良いのでしょうか。いじめや差別を経験した人は、なぜ自分がこのような苦しみを味わうのかと理由を求めるでしょう。震災や戦争で危機一髪助かった人もまた、なぜ自分が生かされたのかと理由を求めるかもしれません。
神様を信じれば全て上手くいくなどと、聖書は記していません。ヤコブは殉教し、ペトロも牢屋に捕まっています。それでも奇跡的に天使に助けられ、ペトロは解放されます。その背後には教会の祈りがささげられていました。喜びの出来事です。しかし、生死を分けた違いはどこにあるのでしょう。本人の信仰や立場、それとも他者の祈りなのでしょうか。なぜペトロは助かり、ヤコブは助けられなかったのでしょうか。
神様はこれらの問いに沈黙しつつ祈りを聞かれます。人の罪の結果であるにもかかわらず、神の責任のもと、命を引き受けられるのです。計り知れない神の思いがそこにあります。そして人には想像もできない救いの御業をも見させてくださるので、私たちは絶望に囚われることなく、希望をもって神様に祈りをささげることができるのです。死から命へと導かれる主が、共に泣き共に喜んでくださるのですから。
音声メッセージ