使徒言行録 9章19後半-31節
それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
江波教会がこの地で宣教を開始してから66年目を迎えます。テントを用いての伝道礼拝から始まり、今このような実りを見ているのです。伝道とは、道を伝えると書きます。剣道、柔道、茶道、書道などがあるように、イエス・キリストの道があります。それはイエスに倣う(ならう)生き方です。
最初期にイエスを宣べ伝えた一人に、サウロ(パウロ)という人物がいます。彼は元々ユダヤ教の信者で、キリスト教会を迫害していました。しかし、「目からうろこ」の出来事から回心し、逆にイエスを宣べ伝える者へと変えられます。彼は、ユダヤ教を信じている人が、キリスト教につまずく箇所が分かっています。それは彼もまた通って来た道だからです。主イエスとの出会いによって、一歩だけ違う道を歩むことになり、命と真理を受け取りました。それならば今度は、主にある喜びの知らせを、隣人へと分かち合いたいと願ったのです。それは橋をかけて、道を繋げていく事に似ているかもしれません。片方の橋は共通点を持つ隣人のもとへ、もう片方は直接イエスへと繋げます。イエス・キリストが、十字架によって神と人とを繋げる架け橋となってくださったからです。
音声メッセージ
使徒言行録 9章1-19節前半
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
イエス・キリストとの出会いは、人それぞれにオーダーメイドです。少しずつ仲を深めていく人も居れば、突発的な出来事を通して急接近する場合もあります。新約聖書の多くの手紙を残したサウロ(パウロ)には、衝撃的な出会いが与えられました。主にある強烈な光に照らされて、目が見えなくなってしまったのです。しかし、主の導きにより助け手が備えられ、癒しと共に目から鱗のようなものが落ちたことから、慣用句となりました。その意味は、出来事をきっかけにして、急に物事の本質が分かるようになることです。サウロはこの出来事を通して、肉体的にも精神的にも目が開かれました。
自分の今まで信じてきた道から方向転換するのは勇気がいることです。彼は、エルサレムの大祭司によって遣わされて、キリスト者を迫害していました。サウロは、そのような自分に死んだのです。そして、永遠の大祭司イエス・キリストによって使命が与えられ、福音を宣べ伝える者として、新しい命に生かされていきます。その道は順風満帆ではありませんでした。それでも、主によって分かち合われた命のパンとブドウの杯は、元気を取り戻し、力づけてくださるのです。
音声メッセージ