使徒言行録 3章11節-26節
わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。
自分の成果では無いのに称賛されても戸惑ってしまうでしょう。中には他者の成果を奪い取る人もいますが、大抵の場合は実力とかけ離れてしまい、自ら評判を落とすことになります。ペトロは足の不自由な人を癒しますが、自分の力ではなくイエスの信が成し遂げられたことを証言し、称賛されるべき方に栄光を帰します。
旧約聖書は「やがて来る良いことの影」と表現されます。それは律法も預言者も、救い主なるイエスを証言しているからです。アブラハムは、息子イサクを神様にささげることを決心しました。それは神様に依らなければ、息子は与えられなかったと理解していたからでしょう。それだけでなく、神様の御心ならば息子は死で終わらないと信頼していたのかもしれません。神様の声に聞き従うアブラハムに、祝福の約束が与えられました。この約束は息子イサクに継がれ、子孫であるイエスにまで届けられていきます。イエスは死に至るまで、神様に聞き従います。神様はこのイエスを良しとし、十字架の死から復活の命へと起き上がらせました。復活のイエスは今日も、一人一人を悪から離れさせ、祝福へと招きます。死ではなく命へと導いてくださるのです。
音声メッセージ
使徒言行録 3章1節-10節
ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
人間の感覚器の内、情報の約83%を視覚から取得していると言われます。私たちの日常において、目に頼らずに生活するのは困難でしょう。そして価値観とは、見るものや出会いによって育まれていきます。もしも暴力が日常的に行われている環境であれば、相手を支配することが普通になってしまいます。もしもレッテルではなく一人一人と出会う環境ならば、相手を尊重していく社会となるでしょう。「雑草という名の草はなく、雑用という仕事も無い」という言葉があります。どのように見るのかが大切です。
足の不自由な人が、神殿近くの門のそばで物乞いをしていました。まるで物を扱うかのように、運ばれてきたこの人は、目の前の人がお金をくれるのかどうかに関心を寄せていました。ペトロとヨハネの姿がこの人の目にうつります。二人はこの足の不自由な人を熱心な目で、物ではなく大切な命として見つめます。そして「私たちを通して神様を見出しなさい」と語り掛け、手を差し伸べ、イエスの名による癒しが与えられました。イエス御自身の願いと憐みが現わされたのです。この人はすぐさま方向転換して、主に向かって喜び踊り、賛美をささげていきました。
音声メッセージ
使徒言行録 2章37節-47節
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
人は生活していく中で、罪責感を覚えることがあります。解消するための方法の一つは、相手に謝ることです。それは神に向かうこともあるでしょう。罪を告白し、神の赦しを求めなくては進めない時もあるのです。戦後、私たちの教会の群れは、天皇を「現人神」として戦争に加担していたと罪を告白しました。戦争は力によって他者を支配し、互いの命を軽んじます。もう戦争はこりごりだと痛感し反省したはずなのに、罪に無自覚な人々により、再び戦うための準備が進められてきています。
ペトロは人々の罪を指摘します。それは安全圏から断罪する姿ではなく、同じ罪人の立場から兄弟姉妹として語り掛ける姿です。心を神に向け方向転換するように、イエスによる救いを告白するバプテスマを受けなさい、贈り物である聖霊を受けようと勧めます。大胆にペトロはメッセージを語りました。しかしほんの50日前まで、彼は人々を恐れて逃げ回っていたのです。それにも関わらず聖霊の力添えにより、神の言葉が与えられ変えられました。御言葉を受け入れた人々も変えられて、助け合う愛の交わりが生まれました。神が呼び集められた者の群れ、それが教会です。神はあなたの名前を呼んでおられます。
音声メッセージ