イザヤ書 11章1-10節
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。

枯れた草花や、切株を見れば、終わりを感じて諦めてしまいがちです。人生においても、努力が実らなかったこと、大切な人とすれ違ってしまったこと、勉強しても身につかなかった科目、諦めて断ち切った過去が思い当たるのではないでしょうか。それでも自然界において、枯れ果てたように見える切り株からも、小さな芽が生えることがあります。私たちの人生においても、終わったと思えるような所から、予期せぬ始まりが待っていることもあるのでしょう。
イスラエルの国は当時、他国の支配下にあり、強力な軍事力によって滅ぼされる日が近づいていました。祈っても状況は変わらず、行き詰まりの中に彼らは立たされていたのです。頼りにしていたものは断たれ、希望が途切れたかのように見えましたが、神はそこからでも新しい命の芽を起こされるのです。救い主は弱い立場に置かれた人に寄り添い、か細い声に耳を傾け、不当な目に遭って隠されていた痛みにも目を留めます。そしてこの地に正義と公平をもたらします。この希望の知らせは人間関係だけに留まらず、自然界の和解にまで及びます。私たちが気付かなくても、神は確かに働いておられるのです。私たちが絶望している所からも、神の希望が芽吹き、花咲いて実を結びますように。
音声メッセージ
- お知らせ
- 2025年12月1日
- 読了時間: 0分


- 杉本拓哉牧師

- 2025年11月30日
- 読了時間: 2分
コヘレトの言葉 12章1-14節
神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。

忙しい日々の中で、私たちは本当に大切にしたい事までも後回しにしてしまうことがあります。自分の心や体の声を聞き逃してしまったり、大切な人に「ありがとう」を伝えそびれたり、後悔することも少なくありません。コヘレトは、明日がどうなるか誰にも分からないからこそ、今日という時を精一杯生きるようにと語ります。時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだからです。若者もやがては年を重ね、体は衰え、命の主のもとへと帰ります。もしも明日が最期の日であるならば、今日の私たちは何を選ぶでしょうか。与えられている時の短さを思う程、物事の優先を見誤らず、心のこもった時間を過ごすようになるのです。
コヘレトは知識を求め、楽しみを尽くし、働きによって富を手にしました。しかし、多くの人が願う成功を手にしても、それが人生の幸せを保証するものではないことを悟ります。だからこそ彼は遺言のように、一つの結論にたどり着きます。「神を畏れ、その戒めを守れ。」神を畏れるとは、創り主を敬い、その導きを信頼すること。神の戒めを守るとは、神が大切にされているものを、私も大切にして生きることです。そのように歩まれたイエス・キリストに従って、神と隣人への愛に生きていこうではありませんか。
音声メッセージ