- 杉本拓哉牧師
- 7月13日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙12章1-8節
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

神社ではお賽銭、お寺ではお布施や寄付があるように、教会では献金があります。献金は、神からの恵みに応答して生きることを表しています。今与えられている場所や身体、日常の歩みは、当たり前ではないと受け止めているからです。大切なのは、どれだけではなく、どのような思いでささげるかということではないでしょうか。
更に聖書は、お金だけでなく体そのものを神にささげる生き方へと招いています。環境や能力、性格や時間もまた、神からの贈り物だからです。一人ひとりに与えられている賜物は異なります。だからこそ私たちは、強みと弱みを補い合い、支え合って生きるようにと集められているのです。
イエスは御自身の豊かさを、パンを分かち合うように、一人ひとりに注いでくださいました。主を見習って、物事の本質を見つめる人がいます。主のように優しく語りかける声もあるでしょう。そして主の手は、貧しい人や痛んでいる人へと差し伸べられました。主は全ての人の居場所となるために、憐れみ寄り添い、共に歩んでくださったのです。私たちは欠けだらけの存在です。その欠片が組み合わされて一つとなる時、生けるキリストがこの世界に現され、主への礼拝がささげられていくのでしょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 7月6日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙11章17-36節
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

一つの出会いが、自分の人生を大きく変えることがあります。友人や恩師、本や音楽や映画等との出会いを通して、考え方や生き方が広がり深まることもあるでしょう。新たな繋がりは、心を潤し、命を育みます。しかし大切であればあるほどに、時にわずかな違いに痛みを覚え、距離を置くこともあるかもしれません。それでも喜びだけでなく悲しみさえも、心身を育む糧となるのです。
聖書は、神と人との関係を「接ぎ木」にたとえます。接ぎ木とは、異なる木を傷つけて結び合わせ、そこから命を通わせる農夫の知恵です。イエス・キリストは、私たちを神の命に繋ぐために、十字架の傷を受けられました。イエスの傷を通して命は注がれ、私たちは御霊の実を結ぶ者へと変えられるのです。
人生の中で味わう痛みや悲しみも、失敗や罪さえも、イエスの傷に接ぎ合わされる中で、新しい意味を見出していくようになるでしょう。痛みを知った上での優しさがあり、傷がなければ気付けなかった隣人との出会いがあるのです。そして、新たな出会いを通して、今度はあなたを通して、主の命は分かち合われていきます。イエスは今日も、あなたの傷に寄り添い、共に生きようと、手を差し伸べています。誰もが、この命の繋がりに招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 6月29日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙11章1-16節
彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

人生は、思い通りにいかないことの連続です。努力が報われなかったり、大切な人との別れを経験したり、事故や病気で心も体も傷つくことがあります。人と比べる中で悲しみが増して、どうしようもなく怒りや妬みが湧いてくることもあるでしょう。「どうして自分が…」と、思わずにはいられない時、それは神に向かって問いかけている時なのかもしれません。
神はイスラエルの民を選び、エジプトの奴隷生活から、バビロニヤ帝国の捕囚から救い出しました。しかし、民はイエスを拒絶して十字架につけ、弟子たちをも迫害していったのです。結果的に、逃げていく先々でも福音は広がり、ついには異邦人のもとに救いの言葉が届けられました。パウロは目の前の現実に絶望するのではなく、その向こうにある神のご計画に心を向けます。そして人間的な妬みさえも用いられ、イスラエルの人々に逆輸入の形で、福音が分かち合われる日を期待します。
つまずくことや失敗することを望む人はいません。それでも倒れ込んでしまいそうな時もあるでしょう。そんな時、あなたの名前を呼び、手を伸ばして起き上がらせてくださる神に出会います。あなたの傷やつまずきさえも用いて、十字架のイエスは今日も私たちを招いておられるのです。
音声メッセージ