- 播磨聡師
- 6月7日
- 読了時間: 3分
マタイ 22:34-40

5月20日、米国ドルトン教会の11名をお迎えし、平和を求める交流会が開かれました。スザンヌ宣教牧師の証しに深く心を打たれました。先生の教会には、移民の立場ゆえに突然入国管理局に連行された女性がおられ、スザンヌ先生はその審査に同行し、不安の中にある彼女の隣に座り続けられました。他者の痛みを共に担うことこそ平和の始まりだと教えられました。ジョナサン・バーロウ主任牧師は、ミカ書6章8節から「平和への長い道のり」と題して語られました。「平和は痛みを無視せず、悲しみを尊厳をもって記憶し、忍耐強く歩む小さな日々の選びの中にこそ築かれる」。アメリカに、苦しむ人、弱い人に寄り添い、平和を築こうとするクリスチャンがおられる。そのことを知り、深く励まされる時となりました。
しかし振り返れば、世界はかつてないほど分断されています。国と国が憎しみを増幅させ、相手を非人間化する言葉が公然と語られる時代に、私たちは立っています。SNSを開けば、外国人を排斥する声が日常の風景となりつつあります。「敵」の中にも、私たちと同じように家族を愛し、愛されている一人の人間であるという想像力が失われています。
このような時代に、私たちは聖書を開きます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、ご自分を試そうとし、貶めようとし、やがては殺そうとする人々の只中で、何を語られたのか。敵意に満ちた問いを向けられたイエスさまが答えられたのは、力でも、論破でも、反撃でもありませんでした。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という愛の言葉でした。本来対立するファリサイ派とサドカイ派が、共通の敵を前にして手を結び、律法の専門家が「試そうとして」問いを発する。罠にかかるように仕組まれた問いの中で、イエスはただ静かに「愛」を語られたのです。試そうとする者を、イエスは敵として退けず、非人間化せず、一人の隣人として、神の愛の言葉を差し出されたのです。応答があるかどうかにかかわらず、神の愛は語り続けられる――これも、無条件の愛の姿です。
第一の掟「神を愛しなさい」の前提には、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように」という言葉があります。荒野の40年の旅をとおして、神に背き続けたイスラエルの民を、それでも神は愛し、約束の地に導き、「わたしの民」と呼んでくださった。愛される資格のない私たちを愛してくださった神の愛が、最初に私たちに注がれたことを忘れてはなりません。私たちに命じられた「神を愛し、隣人を愛する」ということは、神に愛されたという厳然たる真実が起点となっているのです。神に愛された者として、神の愛に応答して隣人を愛するのです。
イエスは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とこの個所を結んでいます。聖書全体の中心は、ここなのだ。そしてイエスご自身が、その完成を十字架の上で示されました。神の愛の本質は、栄光や勝利ではなく、罪人である私たちを背負って苦しまれる姿にあります。愛される資格のない罪人をご自身の命をもって愛し抜かれた。それが十字架の愛です。その愛を私たちは知って打ちのめされながら、本当の意味で神を愛するものに変えられたのです。気の合う人だけが隣人ではなく、私たちを試そうとする人をも、神は愛しておられ、私たちも愛するようにと招いておられるのです。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ
マタイによる福音書20:1-16

これを、愛と憐れみに満ちた神の姿に思えますか。それとも、労働への対価として不公平な神様だと感じるでしょうか。人間の目で見れば、一時間働いた者と一日働いた者が同じ賃金なのは不公平で、経営者として愚かに見えるかもしれません。しかし、神様の思いはそこにありません。最後まで残されていた者にまで目を向け、今日を生きられるようにしたい、その一人の命を大切にしたいという、理屈を超えた熱情が込められています。報酬ではなく、神の「恵み(恩寵)」の物語なのです。
信仰とは、自分を「朝から働いた功労者」ではなく、誰にも顧みられなかった「最後の一人」であると自覚することから始まります。そして、「この私も見捨てられなかった」という驚きと感謝に生かされるとき、私たちは他者を裁く者から恵みを分かち合う者へと変えられていきます。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ
使徒言行録2章22‐24節

ペンテコステで弟子たち一人一人の上に、降りた聖霊は、悪霊でも幽霊でもなく、神の霊であり、十字架にかかってまで罪人を愛し抜かれたイエス様の霊そのものです。聖霊を受けた弟子たちは、大胆に「イエスこそ救い主、主である」と延べ伝えるものへと変えられていきました。
ペンテコステの出来事において、私たちが何よりも目を留めなければならないことは、「動作の主体、主語が『神』である」ということです。十字架、復活、召天、そして聖霊の降誕に至るまで、すべて神の一方的な主権によってのみ実現されるのです。
神の主権の中で、裏切り者の弟子たちに聖霊を注がれました。神は、敢えて、自分の罪を見つめなければならない者を選んでいきます。ペトロは、裏切り者の自分をさえ、イエス様は執り成して祈ってくださり、赦し、聖霊を注いでくださることがどれほど圧倒的な恵みであるかを知っていたのです。
私たちが生涯立ち続けるべき原点、それは「私は罪人であるが、イエス様の一方的な愛と憐れみによって赦され、生かされている」という事実にこそあります。自分の正しさや優位性を誇ることを辞め、ただキリストの十字架の赦しにすがるとき、私たちは初めて他者を本当に愛し、赦し、力づける者へと変えられていきます。
広島教会 播磨聡牧師
音声メッセージ