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ヨハネによる福音書 6章35ー40節
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」



 お腹が減れば食べ物を探し、のどが渇けば水を飲みます。心に空しさを覚えるとき、友人・職場・家庭・SNSなどを通して、私たちは誰かに認めてもらおうとします。けれども、その満足は長くは続きません。やがてまた足りなさに気付き、欲求は形を変えて現れます。たとえお腹は満たされていても、心が満たされない。いのちの飢えや渇きを感じたことはないでしょうか。私たちは、体だけでなく、心も食べ物を必要としているのです。

 イエス・キリストは言われました。「わたしは命のパンである。」パンは日々の命を支えるもの。主は、私たちの抱える心の飢え渇きをご存知で、一時的な慰めではなく永遠の命を与えようとしておられます。大切なのは、この方を知識として知るだけでなく、心の中心に迎えること。パンを眺めるだけでは栄養にならず、食べてこそ命を支えるからです。主は「わたしのもとに来る者を決して追い出さない」と約束されました。私たちの人生を最初から最後まで、死を超えたその先に至るまで、主が責任を持って共にいてくださいます。この「いのちのパン」は、今もあなたに差し出されています。あなたもこの愛と恵みを味わうようにと、主の食卓へと招かれているのです。


音声メッセージ 

ヨナ書 2章1-11節
わが神、主よ あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。


 

木瓜・水仙・霞草
花材/木瓜・水仙・霞草

 困難な目に遭い、危機的な状況に置かれる時、私たちはまるで嵐の中にいるように感じます。先の見えない不安に襲われ、自分の力ではどうにもならない現実に立ち尽くすこともあるでしょう。必死に踏ん張っても、足元から崩されていくように思える日もあります。それでも、その時にこそ、神と一対一で向き合う瞬間なのかもしれません。

 ヨナは嵐の海に沈み、大きな魚に飲みこまれました。握りしめた自分の正しさと計画を手放し、神に降参します。

それは今までの生き方を断念することであり、主にある新しい命に生かされることでもあります。神に反抗して逃げ去り、辿り着いた陰府の底においても、主は祈りを聞かれました。古いものは過ぎ去り、主の御手の中で新しくされるのです。人の目には終わったかのように思えたとしても、神はなおも生きて働いておられ、滅びではなく、新しい命へと導いてくださいます。私たちは、自分で自分を救うことはできません。私たちの能力や正義によるのではなく、引き上げてくださる主の御業によって、救い出されるのです。暗闇の中でも、一人きりにはしないお方が共におります。主の命に飲みこまれ、新しく遣わされていきましょう。


音声メッセージ



コリントの信徒への手紙一6章19-20節
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。


テーブルヤシ・若松・薔薇・チューリップ、霞草 等
花材/テーブルヤシ・若松・薔薇・チューリップ、霞草 等

 コリントの信徒への手紙一6章19-20節でパウロは、「あなたがたは自分自身のものではない」と語ります。私たちの体は、キリストの十字架という尊い代価によって買い取られ、聖霊が宿る神の宮とされました。これは単なる道徳的勧めではなく、「私は主のものとして生きる」という存在そのものの転換を意味します。神が御子のいのちをもって買い取られた私たちは、もはや傍観者ではなく、主に属する者として召されています。この真理は教会にも深く関わります。教会は特定の誰かが支える場所ではなく、キリストの体として結ばれた一人一人が担い合う共同体です。「教会の衰退」という問題意識が浮き彫りになっているこの現実の中でこそ、「誰かがする」のではなく、「私が主に属する者として立つ」という自覚が問われているのだと思うのです。神が高価な代価を払って建て上げられた教会を、自分の身のように愛し、祈り、仕え、宣教の働きに参与することこそ、体をもって神の栄光を現す歩みです。主のものとされた恵みに応え、主の体である教会を共に建て上げて行けることを心から願います。


高松太田キリスト教会 吉田睿濫

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