- 杉本拓哉牧師
- 2月16日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙2章17-3章8節
もし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

アイデンティティとは、他の人と異なる独自の性質や特徴のことです。ユダヤ人は神から律法(聖書の言葉)を与えられたことを誇りにし、神と先祖アブラハムとの間で交わされた約束を大切にしていました。その内容は、民は神から命じられた律法を守り、神は民を祝福して命を与えるものでした。そして契約締結の印として、割礼の儀式が命じられたのです。
しかし月日の経過とともに、割礼が救いの条件のように考えられるようになりました。どんなに悪い事をしても、割礼を受けているから安心だと勘違いしてしまえば、約束は軽んじられていきます。
立ち帰るために重要な事は、どんなに大きな罪を犯しているのか自覚すること、そして自分の力ではなく神に頼ることです。約束を破ったことに気付いたならば、謝るのが当然でしょう。もし赦してもらえたとしても、自分の行いではなく、相手の憐みによるものです。福音とは、もう既に自分の代わりに神に謝り、罪を贖われた方がいるという知らせです。イエス・キリストが十字架で流された血によって、新しい契約が結ばれ、救いの道は拓かれました。救いは、人の努力や行動によるのではなく、神の愛によって与えられている、計り知れない恵みなのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 2月9日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙2章1-16節
神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

インターネットの普及により、情報の取得と拡散は格段に早くなりました。お店の口コミ、Xの裏垢、これまで隠されていた事柄や本音も明るみに出てきています。しかし、大量の情報が溢れている現代において、真偽の判断は益々難しくなっていると言えるでしょう。
それでも神様は真実を知っています。裁きの日に、正しい行いには良い報いを、悪しき行いには怒りの報いを与えられます。しかしニュースを見れば、力を持つ側が小さな声を無視し支配し搾取しているように見えることがあります。神様の裁きはいつになれば行われるのでしょうか。神様はまるで執行猶予の期間を与えるようにして、罪人が悔い改めて立ち返ることを待っておられるのです。
定められた日には、人々の隠された事柄までキリスト・イエスを通して裁かれます。ここには二つの意味が込められているでしょう。一つ目は、裁判官としてイエスが私たちを裁くこと。二つ目は、私たちに対する判決が、もう既にイエスを通して成し遂げられていることです。イエスが受けられた十字架の死によって、私たちの罪は既に裁かれたことが明らかになる日がやって来ます。それこそ、キリスト者が告げ広めてきた福音の知らせなのです。
音声メッセージ
ローマの信徒への手紙1章18-32節
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

罪という言葉を耳にする時、法律に照らした刑罰をイメージするのではないでしょうか。罰金刑か懲役刑か犯した罪の内容によって罰則が定められ、最も重い刑罰が死刑です。しかし神の定めは、私たちの想定以上かもしれません。
貪欲さ、他者を害しようとする心、陰口、嫉妬、侮りや高慢、親に逆らうこと、神を憎むこと、不誠実、無慈悲など、このようなことを行う者は死に値すると言われます。神の義に照らした時、罪を犯したことの無い人など居ないのです。これを不義といいます。聖書は正しい人は一人もいない、誰しも罪人であることを、私たちに教えます。罪の自覚が、神の赦しを求める第一歩となるからです。しかし私たちの心は、なかなか神に向かいません。自分の正しさに固執したり、神以外の様々なものに信頼を寄せたりします。不信心が根深く存在しているからです。
神は人々の不信心と不義に対して怒りを現します。神から人を引き離そうとする、罪に対して怒るのです。イエス・キリストは私たちの罪を身に受けて、十字架に引き渡されました。しかもそれで終わりではなく、神の義を成し遂げられた救い主は、十字架の死を越えた復活の命へと、私たちを招いてくださっているのです。
音声メッセージ