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執筆者の写真杉本拓哉牧師
ルカによる福音書 23章32-49節
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」


花材/ジャアマンアイリス・フリージァ・ニラ花・木苺
花材/ジャアマンアイリス・フリージァ・ニラ花・木苺

 同じ出来事であっても、誰がどこから見るのか、どのような心持ちなのかによって、見え方は変わります。それぞれの性格、周囲の環境、培ってきた経験により、人それぞれの価値観が形成されます。価値観は物事を計る一つの物差しとなるでしょう。その上で、先入観や思い込みには気を付けなくてはいけません。鳥のように俯瞰的に、虫のように身近に、魚のように流れの中で、心を柔らかく色んな視点で見ることが重要でしょう。

 イエスの十字架の周りでは、様々な反応がありました。他者を恐れて黙って見ている人。からかい半分で「救い主ならば、ユダヤ人の王ならば、自分を救ってみろ」と叫ぶ人もいました。自分の価値観に凝り固まり、救い主とはこうあるべきだと考えるならば、神ではなく人や偶像を信じていることになります。力に満ちた王様でなければ受け入れないのであれば、誰よりも低く小さくなられたイエスを見逃してしまうでしょう。そうではなく、イエスの正しさを証言した人や、十字架のイエスを信じて頼った人もいました。あなたはイエスをどのように見ていくのでしょうか。私たちの赦しを心から祈り、十字架上で手を広げて招いてくださる方がおられるのです。


音声メッセージ

執筆者の写真杉本拓哉牧師
ルカによる福音書 23章1-25節
そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。


黄梅
黄梅

 「本当に大事なのは、どうしたら上手くいくのかという話ではなく、上手くいくか分からないながらも踏み出してみる勇気ではないか。何かを達成したならば、今度は自らの成功を積極的に手放してみよう。その勇気こそが、社会を内側から次のステージへと押し上げる力になるだろう」と語る人がいます。果たして私たちに出来るのでしょうか。困難であってもイエスに従う道は、自らを変革していく可能性に満ちています。なぜならイエスこそが、いわゆる社会的な成功を手放したからです。その結果一人の犯罪者の命が救われました。

 割に合わないと思うでしょうか。しかし、もしも自分が犯罪者の立場ならば、あり得ないほどの恵みとなります。捕まらなければ犯罪ではない、と勘違いしていませんか。イエスの裁判は、宗教的指導者の妬みから始まりました。気に入らない人を蹴落としてやろうと願ったのです。裁判官は自分の立場を守るために、周囲の大きな声に流されてしまいました。命が虐げられているのを見逃したことや、責任逃れをしたことはありませんか。心当たりがあるならば、私たちはイエスの命を奪った一人です。そしてイエスに命を救われる一人となるのです。


音声メッセージ

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