ルカによる福音書 2章1-21節
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたにとってクリスマスとはどのような日でしょうか。恋人と過ごす日、チキンやケーキを食べる日、プレゼントを贈り合う日かもしれません。クリスマスは二つの単語が組み合わさってできた言葉です。Christmas =Christイエス・キリスト+mas礼拝(ミサ)、イエス・キリストの降誕をお祝いする礼拝がクリスマスなのです。しかし友達の誕生日は祝っても、関係性が遠ければお祝いすることはないでしょう。
約2022年前、若い夫婦はお金もなく、居場所もなく、動物たちと共に身を休めていました。出産には適さない場所でイエス・キリストは降誕したのです。その知らせは羊飼いたちに届けられました。この時代、羊飼いは律法を守れないため社会の片隅に追いやられ、お金がなかったため人口調査でも数えられませんでした。人間扱いされていないような羊飼いたちのもとに天使は現れたのです。もしも王宮にて救い主が誕生しても、羊飼いにとっては関係なかったことでしょう。しかし飼い葉おけの中に寝かされた赤ん坊によって、自分たちの生活のど真ん中にまで救い主が来てくれたことを知ったのです。救い主は全ての人のため、一番低い所にまで降って来られました。それは私たち一人一人と出会い、関係を結ぶためでした。
音声メッセージ
ルカによる福音書 1章57-80節
この子の名はヨハネ
漫画の主人公が強敵に倒されそうになっても、必ず大逆転することをみんな信じています。作者のことを信じているからでしょうか。今までの物語から、ハッピーエンドになることを確信しているのです。果して私たちは、聖霊の導きによって聖書が書かれたことを、私たちの人生を導いていることをどこまで信じているのでしょうか。困難な時に神様を見失い、順調な時に神様を不必要とし、思いがけない神様の出来事に信じられないこともあるでしょう。
祭司ザカリアは老人であることを理由に、我が子の誕生という喜びの知らせを信じられませんでした。その裁きとして彼は、口と耳が閉ざされます。私たちの口は何を語るのでしょうか。自己正当化の言葉ではなく、神様を賛美する言葉が与えられますように。私たちの耳は何を聞くのでしょうか。悪口ではなく、神様の言葉に耳を澄ませていきますように。口と耳が閉ざされた期間、ザカリアは神様との対話へと導かれたのでしょう。待望の息子が誕生した時、老夫婦は「ヨハネ」と名付けました。その時、ザカリアは回復します。神様から与えられたヨハネという名前は「主は憐み深い」という意味です。子どもの名前は老夫婦の信仰の言葉となりました。
音声メッセージ
ルカによる福音書 1章39-56節
主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
人生は道にたとえられることがあります。まっすぐな道もあれば、曲がりくねった道もあり、上り坂や下り坂、舗装された道路や、でこぼこ道もあります。その途中で他の道と合流することもあれば、交差点のように道を選択することもあるかもしれません。
イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と語ります。イエス自身が道なのだと宣言しているのです。私たちは、道の始まりと終わりをどこまで認識しているでしょうか。果たして、地上で生を受けた所がスタートで、死がゴールなのでしょうか。聖書は、この世だけで終わらない命を語ります。道は続いていくのです。
イエスの道にはガードレールが付いています。片側のガードレールは、神を神とする教えです。自分の優先順位が神よりも上に立つ時、それは自らを大きくして神を小さくしていることとして、戒められることでしょう。もう片方のガードレールは、自分の存在価値を見失ってしまう時を支える教えです。神は小さな存在であるあなたに目を留めて、高価で尊いと大切にして下さるのです。主の愛はガードレールのように私たちの歩みを支えています。
音声メッセージ