- 杉本拓哉牧師

- 2023年11月12日
- 読了時間: 2分
使徒言行録 15章1-21節
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

宗教において、「救い」とは極めて重要な概念です。それは、来世か現世か、個人か集団か、自力か他力か、これらの観点により分類することができます。キリスト教における救いとは、イエス・キリストの十字架の贖いにより私たちの罪が赦されたこと、そして現在も来るべき世でも義とされること、主の命に生かされることだと定義します。つまり現世と来世の両方の視点で、個人的に、イエスという他者によって救われることを信じる宗教だと言えるでしょう。
これらは初めから明白だったのではなく、話し合いを経て、主に聞き見出してきた教義です。今回の箇所では、自分が律法を守ることによって救いに与るのか、それともイエスという神の恵みのみによって救われるのかが論点になります。旧約聖書の律法は、例えるならば高度一万mまで到達しなければ救いがないことを教えます。律法学者はジャンプの練習をしたり、山に登ったり努力をします。イエスの救いは、まるで飛行機のように高度一万mまで引き上げてもらうようなものでしょう。自分の力では律法を守れないと絶望した人や、そもそも律法を知らなかった人にとって、このイエスの救いは希望となります。
音声メッセージ
使徒言行録 14章1-28節
「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」

神が人を創造したのか、それとも人の想像により神が作られたのか、哲学の分野で議論が交わされることがあります。このような問いには定義が重要となるでしょう。聖書では、全ての創造主であり、命を与え育み受け取られる主を、生きておられる神様として証しています。また人の都合で、人によって造られた神々を偶像と呼んで退けます。偶像礼拝の根底には、自己中心性があり、自らが神となる危険性をはらんでいるからです。
パウロとバルナバの第一回宣教旅行は、偶像礼拝との戦いとも言えるでしょう。キリストにある価値観は、今までの文化とは異なるメッセージを提供します。ある人は、心が砕かれると共に悔い改めへと導かれ、喜びをもって信仰に入ります。またある人は、心を頑なに自分の正しさに固執して、怒りをもって反発していきます。ある人は、心を開いたかのように見えても、自分のイメージする神の像に当てはまらなくなった時に、簡単に捨て去ってしまいます。
昔から今に至るまで、季節を与え食物を施し、恵みと喜びで満たしてくださる方がおります。死を越えて、復活の命に与り、今も生きておられるイエス・キリストに立ち帰ろうではありませんか。
音声メッセージ
使徒言行録 13章1-3、26-19節
神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

神学者カルヴァンは、「救いは既に神によって予定されており、人はそれを決して知ることができない。」と二重予定説を提唱しました。救いは、人間の努力によって与えられるものではなく、一方的な主の恵みです。そして、誰が救われるのかを人は知らないからこそ、全ての人に救いの道であるイエス・キリストを分かち合います。私たちは未来を知らないからこそ、分からないからこそ、ベストを尽くすことができるのです。神様の計画があります。しかしそれは、神様に任せっきりになり、考えることを放棄することには繋がりません。そして、もしも神様が「この人は救う、この人は救わない」と考えておられるのであれば、私たちは残念な気持ちになるでしょう。
聖書が指し示す神様は、愛なるお方です。そして人の選択を尊重されるお方です。イエスは今日も、命を与えるために人々に出会い、救いの道へと招き、手を差し伸べてくださっています。その手を受け入れることも、その手を拒絶することも、人には可能です。手を繋いでも、他の事柄に目を奪われ、手放してしまうこともあります。それでも主は、まるで迷子の子どもを見つけ出すかのように、出会い直してくださるのです。
音声メッセージ