ローマの信徒への手紙10章1-21節
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。

「ありがとう」や「ごめんね」といった言葉は、思っているだけではなく、口に出してこそ相手に気持ちが伝わります。思いを表すことには勇気が必要ですが、その一歩が人との関係を変えるきっかけになることもあるでしょう。大切な言葉を交わすことは、相手との絆を深めるだけでなく、自分自身の心にも確かな響きをもたらします。信仰もまた、心の中に留めておくだけでなく、口に出して言い表すことが大切です。
私たちの信仰の言葉を、神様は耳を澄ませて聞いておられます。その言葉は自分自身を整えるだけでなく、隣人までも力づけることがあるのです。信仰の言葉は、共鳴し合うように広がります。2000年前、イエス・キリストの御業が、大きな鐘の音のように世界に響き渡りました。そして今も、その響きは止むことなく続いています。弟子たちや初代教会の人々が「イエスは主です」と告白したその声は、時代を越えて、国境を越えて、私たちの所にまで届いています。そして今、私たちが信仰を言い表す時、その響きはさらに前後左右に伝わっていきます。たとえその声が小さくても、震えていても、神様は喜んで受け取ってくださいます。主が用いられる時、あなたの信仰の言葉は、誰かの心に希望を届ける響きとなって広がっていくのです。
音声メッセージ
ローマの信徒への手紙9章14-29節
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

私たちは日々、何かを選択して生きています。どの服を着るのか、何を食べるか、誰と一緒に過ごすか。時には人々から選ばれることもあるかもしれません。受験や就職では試験によって選び出されます。通過した先にも困難はありますが、期待されている証拠でもあるでしょう。
神様もまた人を選ばれます。当事者にとって不公平とも思えるような選びかもしれません。しかし私たちの思いを超えた、憐み深い神の計画があるのです。旧約聖書には、神がイスラエルの民を選ばれた歴史が記されています。イスラエルの民は、力強く知恵に満ちて信仰的に立派だったから選ばれたのではありませんでした。むしろ他の民族よりも貧弱だったにも関わらず、一方的な神の愛によって選ばれたのです。弱さを知るからこそ主を頼り、神の栄光が現される器として用いられていくのでしょう。
教会もまた、神の愛にふさわしい者だから選ばれるのではありません。救いは、自分自身の努力や功績によって与えられるものではないのです。ただただ主の愛と憐みによって、救いにあずからせていただきます。そしてこの恵みを自分だけのものとするのではなく、世界中の人々と分かち合うようにと、使命が託されているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 6月8日
- 読了時間: 2分
神の愛から引き離されない
ローマの信徒への手紙8章31-39節
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

順調に物事が進んでいるとき、私たちは「自分の力でやれた」と思い、神のことを忘れてしまいがちです。逆に、悲しみに襲われたときには、「どうして神はこんなことを許されたのか」と神の愛を疑い、心が離れていってしまいます。喜びの中でも、悲しみの中でも、私たちの心は神から引き離される誘惑にさらされます。
それにもかかわらず、神は私たちの味方となり、私たちのために戦ってくださるのです。どんな敵が襲ってきたとしても、それを上回る力強い味方がいるならば、恐れる必要はありません。たとえ命が脅かされたとしても、罪と死に勝利されたキリストが共におられるのです。最期の裁きにおいて、私たちの罪をサタンが訴え出たとしても、すぐさまイエス・キリストは立ち上がり、「この者の罪は、すべて私が支払い済みだ」と宣言してくださいます。神に対する私たちの信頼が揺らいでも、私たちに対する神の愛は揺らぎません。宇宙まで遠くに飛んでも、深海まで深く潜っても、キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。十字架で現されたその愛は、私たちを掴んで離さないのです。チームメイトであり、家族となられた救い主が、私たちに勝利をもたらしてくださったのです。
音声メッセージ