- 特別礼拝
- 2月15日
- 読了時間: 2分
マタイによる福音書 18章15-20節
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

現代はSNSやオンライン礼拝など、距離や時間を越えて人とつながる手段が豊かに与えられ、ネットは必要不可欠な道具となりましたが、教会の交わりは、やはり対面で顔を合わせ、祈り、心を通わせるリアルの関係という土台の上にあります。マタイ18章の「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもいる」との約束は、小さな群れにとって大きな慰めです。牧師不在は不安や戸惑いを感じることがあると思いますが、教会員の皆さま一人ひとりが「この教会を形づくる主体である」ということに目覚める貴い機会でもあります。教会員同士の対話はますます重要となり、ネットという有益な道具を活用しつつ、実際に会って交わるリアルの絆も大切にしましょう。同時に他教会ともネットや時に行き来など工夫をして繋がり、一教会で問題を抱え込むことなく、共に歩んでまいりましょう。連合テーマとして「みんな、仲良く、楽しく、そして喜んで」と掲げています。弱さを抱えている私たちですがその真ん中に主ご自身が立って下さるという約束に信頼し歩みを進めてまいりましょう。
広島教会 連合会長 石倉央
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2月8日
- 読了時間: 2分
エズラ記 6章19-22節
そして七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。

人との衝突を恐れるあまりに、少しずつ距離を取り、気づけば関係性が希薄になることはないでしょうか。そのまま進めば、孤独を感じることがあるかもしれません。そのような時には、誰かと一緒に食事をしてみるといった、小さな一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。「同じ釜の飯を食べる」と言われているように、食卓は信頼や絆を育みます。たとえ気まずさやぎこちなさが残っていても、食卓に座ってみましょう。壊れかけた関係でさえ、同じ食卓から静かに回復が始まることがあるのです。
主なる神は、私たちを一つの食卓へと招いておられます。そこに集められるのは、立派な人や裕福な人だけではありません。迷い、傷つき、孤独を抱え、神の思いから離れてしまった人々をも呼び集められるのです。主を引き渡したユダも、3度繰り返し関係を否定したペトロも居ました。それでもイエスは、彼らを食卓から退けません。弱さや間違いをも受け入れ、同じパンを裂き、同じ杯を分かち合われたのです。主の食卓は、裁きの場ではなく、回復の始まりです。そのためにイエスは十字架へと向かい、裂かれた体と流された血によって、隔ての壁を取り除いたのです。命をもって備えられた主の交わりに、今日も、私もあなたも招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2月1日
- 読了時間: 2分
ヤコブの手紙 2章14-26節
もし、か兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

ナチスの時代、ボンヘッファーという牧師がいました。彼は「安価な恵みは、私たちの教会の死に至る敵である」という言葉を残しました。悔い改めることなく赦されるなら、そこに罪の自覚は生まれません。自分の罪の大きさを知らなければ、代わりにそれを負ってくださった方への感謝や驚きも起こらないでしょう。イエスを信じることは、イエスへの従順を伴います。神は十字架という大きな犠牲を支払い、罪の赦しを成し遂げられました。この神の愛こそが、私たちの生き方を変える原動力です。十字架に死ぬ者は、十字架の命に生きるように変えられるのです。
当時のドイツ教会は、神の恵みによって赦されているという信仰を持ちながらも、具体的な行動や社会的責任に結び付いていませんでした。教会は救いを語りながら、迫害や差別という現実の不正に沈黙してしまったのです。苦しむ隣人を見捨てるならば、主が生きておられる教会ではなくなります。ボンヘッファーは、そのような信仰のあり方を安価な恵みと呼び、厳しく問いかけます。高価な恵みは、神の御子の命によって与えられる全ての賜物です。そしてこの恵みは、今日も私たちに与えられています。主は私たち一人ひとりを招き続け、新しい歩みへと導いてくださるのです。