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- 杉本拓哉牧師

- 10月5日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 24章1-24節
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。

私たちは毎日、何かを選びながら生きています。服装や食事のような身近な選択もあれば、進学や就職など特別な決断もあります。選択の積み重ねが人生を形作ります。大切なのは、何を基準に選び取るのか、自分の心を整理しておくことです。もしも、他の人や環境のせいにしてばかりなら成長はありません。しかし、自らの歩みを振り返り、恵みを数えて失敗からも学ぶのであれば、次の一歩に繋がることでしょう。
宗教においても、一つを選ぶ決心は重要です。聖書の時代、イスラエルの民も「どの神を信頼して生きるのか」向き合わされました。ヨシュアは人々の前で宣言します。「私と私の家は主に仕える」と。自分の欲望を満たすための神々ではなく、愛と真実をもって共に歩んでくださる神を選び取ったのです。自由な選び取りと、信仰による決断は、今の私たちにも求められていることでしょう。大きな力で脅し、一方的に条件を押し付けるならば、良き関係性は育まれません。過去を振り返り、主の恵みと憐みを見出す中で、新しい一歩を踏み出す勇気と希望が湧いてくるのではないでしょうか。私たちもまた宣教開始68年の歴史を振り返り、「私たちの教会は主に仕えます」と、心と声を合わせて告白しようではありませんか。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 9月28日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 20章1-9節
そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。

私たちには、心と体を休めることができる安全な場所が必要です。災害時に避難所があるように、仕事や人間関係の中でしんどさを覚える時にもシェルターが必要です。旧約聖書の時代、神さまはイスラエルの人々に「逃れの町」を備えられました。過ちによって人を傷つけた者が、復讐する者から守られて、新しく生きるための場所です。そこは恐れと憎しみの連鎖から断ち切られるために、神が与えられた安心できる居場所でした。
現代に生きる私たちにとって、逃れの町はどこにあるのでしょう。聖書はイエス・キリストこそが、安全な居場所であることを伝えています。逃れの町はイスラエルの民だけでなく、旅人や寄留者までも含む、全ての人々のために開かれていました。同じようにキリストは、全ての人のために十字架にかかり、贖いの大祭司となられたのです。それは、多くの罪の赦しのため、神との和解をもたらすためです。誰もが少なからず、怒りや憎しみ、悲しみや恐れを抱いています。そして思いがけずふとした拍子で、誰かを傷つけてしまう弱さを持っています。だからこそイエスのもとに逃げ込み、負の連鎖を断ち切って、安心して新しい命の関係を築くようにと招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 9月21日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 3章1-17節
「契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」

私たちの人生は、初めての事柄の連続かもしれません。進学や就職、結婚や子育て、病気や老いや死。経験や知識だけでは対応できない、初めての出来事に立ちすくむこともあるでしょう。自らの力では越えることの出来ない困難な場面において、私たちは何を頼りにするでしょうか。
イスラエルの民は、激しく流れるヨルダン川を眼前に、三日間主の御心を尋ね求める時を持ちました。彼らは、「主の臨在のしるしである契約の箱の後に続いていくように」と受け取ります。そして、箱を担いだ祭司が一歩踏み出す時、川の流れはせき止められるのでした。水が止まり安心してから渡ったのではなく、主の約束に信頼して一歩踏み出す中、新たな道が開かれていったのです。
未知の一歩を踏み出すのは、誰しも恐ろしいことです。しかし、自分の考えよりも神さまへの思いが大きくなる時、信仰の一歩へと導かれていくのでしょう。そして困難を乗り越える時、主の約束の確かさや力強さを、ますます深く知るようになるのです。主は先立ち、共に歩み、最後の一人まで待ってくださいます。だからこそ私たちは、安心と信頼と勇気をいただき、主と共にはじめの一歩を踏み出すことができるのです。
音声メッセージ