ヘブライ人への手紙 4 章 1-13 節
神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
自分さえ良ければという考え方の行きつく先には、争いや崩壊が待っています。互いの利己心によって傷つけ合えば、心は閉ざされ繋がりは断たれ、やがて孤立してしまいます。今さえ良ければと、将来に負担を先送りにした国債残高は千兆円を超えました。世代間格差は広がり、社会は分断される方向に進んでいます。悲しみと怒りに震える声は、いずれ表面化することでしょう。希望の未来を迎えるためにも、小さな声に耳を傾け、方向転換いたしましょう。
神は私たちに安息にあずかるように招きます。安息とは、多面性のある言葉です。子が親の懐で安らぐように、信頼できる神との交わりの時です。また、救われた自由の中で、安らぎと喜びを独占することなく、隣人と共に神を見上げることでもあるでしょう。ある人は神と人との間で執り成しの祈りをささげ、和解の恵みにあずかります。そして神は民と共に同行することと安息を与えることを決心されました。私たちが隣人に手を差し伸べる時にこそ、今も生きておられるイエスを見出していきます。主は今日も、私たちを招いておられます。だからこそ、今、神の声を聞いたならば、自分の欲望に支配されるのではなく、隣人と共に生きる道を選び取って行こうではありませんか。
音声メッセージ
マタイによる福音書 12 章 1-8
人の子は安息日の主なのである。
考え方や価値観の異なる者同士が共に生きる時、ルールが必要になります。共存のためには、互いの違いを尊重しつつも、共通の基盤を築くことが求められるからです。しかしルールは、固定されるものではなく、時代や社会の変化に合わせて調整する必要があるでしょう。なぜなら、人々がいきいきと共に生きるためにルールは存在し、ルールのために人がいるのではないからです。
ファリサイ派の人々は、律法の字句を厳格に守ることに一生懸命になるあまり、律法を与えられた神の意図から遠ざかってしまいました。イエスは聖書の物語から律法を再解釈することにより、本来の意味を取り戻されたのです。律法の目的は人を縛りつけ、裁くためではありません。神が憐みをもって自由を与えられた主の民が、神と隣人と共に喜び生きるためでした。神が喜ばれるのは、形だけの犠牲をささげることではなく、愛をもって神と人とに仕えること。形式よりも、心に込めた愛を、神は大切にされるのです。イエスは「安息日の主」であると宣言します。この方が、私たちを神との交わりに招き、心と体の安らぎを与え、苦しみにある人に寄り添い、隣人と共に自由を味わうようにと繋ぎ合わせてくださるのです。
音声メッセージ
出エジプト記 33 章 12-17 節
「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」
あなたにとって神様とはどのような存在でしょう。優しい、厳しい、大きい、怖い、温かい、空気、正義、愛、等々。特定の宗教を信じている人も、信じていない人も、神様のイメージを持っているのではないでしょうか。それぞれの心の中の大切な場所で、背伸びする必要もなく、恰好もつけず、良い人の仮面も外して、ありのまま神様と顔と顔とを合わせる。それは特別な安息の時間となります。
聖書に書かれているのは、正しく立派な人だけではなく、むしろ数々の失敗を犯してしまう人間のリアルです。イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から、神様によって救い出されました。そして十戒という大切な約束を交わしても、その直後に破ってしまうような愚かさを抱えています。怒った神様は、「一緒には行かない」と語りますが、モーセが間に立って祈りつつ願う中で、意見を変えられます。コミュニケーションを取り、人と共に生きるためにご自身の思いまでも変えられる方。それが聖書で証される神様です。イエス・キリストなる神様は、神であることに固執されず、人となられました。この方が共にいるからこそ、今までもこれからも、主の道を安心して歩み出すことができるのです。
音声メッセージ