- 杉本拓哉牧師

- 9月14日
- 読了時間: 2分
ヨシュア記 1章1-9節
わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

大きな仕事や新たな責任を担う時、私たちは「自分にできるのだろうか」と不安に駆られることがあります。前任者が偉大であれば尚の事、その人と比べて力や経験が不足しているように思えてしまいます。聖書に登場する人々も同じように、不安や恐れを抱いていました。
大きな仕事や新たな責任を担う時、私たちは「自分にできるのだろうか」と不安に駆られることがあります。前任者が偉大であれば尚の事、その人と比べて力や経験が不足しているように思えてしまいます。聖書に登場する人々も同じように、不安や恐れを抱いていました。
モーセの死後、ヨシュアはイスラエルの民のリーダーとなります。しかしそれは自分の力では、担うことのできない働きでした。だからこそ主を求めたのです。主もまた憐みにより「共にいる」と、約束を与えてくださいます。この関係性こそ、モーセから学んだことなのでしょう。敵や困難に立ち向かう時、主の約束を信頼して堅く立つこと。主が教えられた律法、神と人・人間関係を愛で結ぶ教えを心に刻むこと。自分の考えで右往左往するのではなく、み言葉に根ざして神の確かさを味わうこと。その日々を通して、共におられる主を体験していきます。
そしてこの約束は、モーセやヨシュアだけのものではなく、今を生きる私たちにも与えられています。人間関係のこじれや、将来への不安のただ中でも、神は共におられます。だからこそ、不安や恐れに縛られるのではなく、信頼と希望と愛をもって、今日の一歩を踏み出していくように招かれているのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 9月7日
- 読了時間: 1分
申命記 34章4-11節
主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
- 特別礼拝
- 8月31日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙5章6-11節
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

説教題である、「引き裂かれたものをつなぐ務め」は、教会の務め、キリスト者の使命です。ローマ書三章で、パウロは人間には「正しい者はいない」と断言します。しかし、同時にキリストの贖いの業を通して、救いが開かれたことも語ります。五章では、このキリストの贖いの業とは十字架の死のことであって、弱い者のため、不信心な者のため、罪人のため、敵のためであったと語られています。ここに福音の真髄が言い抜かれています。福音とは、神と敵対関係にあり、神と引き裂かれていた人間が、十字架によって神とつなぎ合わされたことにあります。だから、キリスト者の使命も、引き裂かれたものをつなぐ務めを果たすことです。引き裂かれたものをつなぐ務めには、十字架(苦難)があります。十字架の道は孤独で苦しくて誰からも評価されず、理解されないものです。それでも、キリストが十字架に架かられたのだから、その道を私たちも歩んでいくのです。引き裂かれたものをつなぐ務めを果たすキリスト者がおられます。決定的に世界が変わることを信じ、引き裂かれたものをつなぐ務めに仕えてまいりましょう。
広島キリスト教会 播磨 聡 師
音声メッセージ