- 杉本拓哉牧師
- 6月1日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙8章18-30節
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

妊娠が分かっても、すぐに赤ちゃんの姿を見ることはできません。今は見えずとも、新しい命は確かに育まれ、出会いは近づいています。出産時には苦しみにうめきながらも、新しい命の誕生に希望を抱きます。進学や就職で新しい地に赴く時もまた、別れの痛みと出会いの希望が混在します。新しく物事が始まる時には今までの殻を破るため、痛みを伴うことがあるでしょう。
神は人々にご自身の霊を授けられ、執り成しの祈りをしてくださるお方です。そして主の時に、完全な形で自由と命と栄光の世界を実現されます。私たちの世界では、際限のない欲望があり、搾取が連鎖し、戦争や公害など多くのうめきを抱えています。それでも主は、私たちの内に新しい命を始められました。今は見えなくても、確かに始まっている神の救いの御業です。
私たちの見える世界には限界があります。世界の始まりと終わり、命はどこから来て、死んだ先に何があるのか、私たちには分かりません。それでも福音を分かち合うために、死の世界にまで降られた主が、神の家族の交わりへと招いてくださっています。希望はこの方にあります。十字架に死に、復活の命に今も生きておられる救い主が、万事が益となるように共に働いてくださるのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 5月25日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙8章1-17節
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。…もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。

血の繋がりのない者同士が親子関係を結んで家族となるのは、お互いに大きな決心が必要でしょう。養子縁組において、親は愛をもって子を迎え入れ、「この子と共に生きる」と覚悟を固めます。子もまた、この人を親として信頼し、愛して心を開かなければ、関係性は築かれません。
私たちは生まれながらの神の子ではありませんでした。そして「親の心、子知らず」という言葉のように、神の心を知ろうともせず、自分勝手な道を歩んでいたのではないでしょうか。それにも関わらず、神は私たちを愛し、ご自身が親となって共に生きることを決意されたのです。しかし、義なる神は罪と共存することができません。この問題解決のため、神の子であるイエスが人となられました。この方は唯一、神の思いである律法を全うし、私たちが受けるべき罪と死の報いを十字架で担われました。それはまるで報酬を交換するかのように、私たちに義と命が与えられる出来事でした。さらに神は、私たちをご自分の家族とし、愛に満ちた関係へと導かれます。イエスを長子として従う道には苦難もありますが、その先には主の栄光が満ちています。創造主である父なる神が共におられるのですから、必要な恵みを相続させていただきましょう。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師
- 5月18日
- 読了時間: 2分
ローマの信徒への手紙7章7-25節
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

私たちはルールを知っていても、守ることの出来ない愚かさがあるのかもしれません。自転車の並列走行、車の黄色信号や制限速度、人を傷付ける言葉や行動、依存症は多くの場合トラブルの元です。さらには自分を棚に上げて他者の違反を許せない、自己中心的な罪に捕らわれることもあります。
法律が定められるまで、ルール違反はありません。聖書でも、神が禁じた善悪の知識の実を人が食べたので、罪が入ってきました。神の思いが律法として与えられたので、罪は明らかにされたのです。罪は神や他者や自分を傷付け、最終的には死に導きます。バプテスマを受けてキリスト者となっても、神の基準を知っていても、自分の力ではどうにもならない罪に直面する時があります。罪から救い出されて義人とされた後も、私たちは罪を犯してしまう罪人なのです。それならば、神の思いを大切にする努力は無意味なのでしょうか。そうではありません。過去に神を知る前は、自分を基準にして好き勝手に生きていました。そして将来には神に似た者へと変えられます。現在、心に二つの思いを抱いて葛藤を覚えていること自体が、神が今まさに私たちの内で働き、変えてくださっている証拠なのではないでしょうか。
音声メッセージ