- 杉本拓哉牧師

- 2025年11月2日
- 読了時間: 2分
コヘレトの言葉 7章7-22節
あなたは義に過ぎてはならない。…どうして自ら滅びてよかろう。あなたは悪に過ぎてはならない。…あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう。

生きていると、理不尽な目に遭うこともあるでしょう。正直者が損をして、不正をする人が得をしているように見える場面もあります。また、置かれた環境や、過去の傷、人間関係のこじれによって、生き方が歪められてしまうことがあるかもしれません。現実に打ちのめされ、将来への希望を見失う時、私たちは過去にすがって「昔は良かった」と思いがちです。しかし、そのような考えは主の知恵ではありません。過去と他人を変えることはできず、今と自分だけが変えられるものだからです。過去の自分が精一杯生きてきた証である「今」を否定せずに、未来に繋がる一歩を踏み出しましょう。
幸いな日には主にある喜びを味わい、不幸な日には主への畏れを覚えましょう。私たちは将来が分かり得ないからこそ、謙虚さが育まれます。もしも自分の正しさに固執するならば、周囲の人々は離れて、やがて誰にも言葉が届かなくなります。逆に悪へと突き進めば、行きつく先には死が待っています。主への畏れこそが、第三の道へと私たちを招きます。自分の正しさではなく、キリストが示された赦しの義を受けましょう。そして正しさからの言葉ではなく、互いに赦された者として、恵みを分かち合いましょう。新しい命の喜びは、そこから始まるのですから。
音声メッセージ
コヘレトの言葉 4章1-17節
三つ編みの糸はたやすくは切れない。

誰かが泣いたり悲しんだりしていても、私たちは気付かないふりをすることがあります。近くのアパートから怒り声や泣き声が聞こえたとしても、関わり合うことを避けてしまうかもしれません。世界情勢において、力のある国が弱い国から利益を貪り、軍部のクーデターによる支配が取り沙汰されても、無関心にやり過ごしてしまいます。
もしもあなたが、涙から目をそらしてきたならば、聖書は今日も『見よ』と呼びかけています。虐げられている人々を、見ないふりをするのではなく、痛みや悲しみを見つめ、隣人を知ることから全ては始まります。自分の欲求を抱え込むための両手ではなく、互いに愛をもって助け合い、手を取り合う生き方へ招かれています。私たちは弱く、出来ることには限界があります。だからこそ、与えられた出会いの中で、支え合う者とされているのでしょう。
イエス・キリストは、世界中の涙を見つめ、憐れみ救いの手を差し伸べました。その手は交じり合うことのない二つの糸を、結び合わせる和解の働きです。人と人との絆は、時に簡単に切られてしまいます。それでも神様ご自身が三本目の糸となり、私たちを繋ぎ合わせてくださるのです。私たちの目の前に慰めが見えなくても、神の慰めは今も私たちに届けられているのです。
音声メッセージ
コヘレトの言葉 3章1-17節
私は知った。/神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく/加えることも除くこともできない。/こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。

朝晩の涼しさに、秋の訪れを感じます。季節が移り変わる時を、自然は静かに告げています。人生にもまた、喜びの時、涙の時、笑う時、黙る時があります。けれども、私たちは思い通りに「時」を選ぶことはできません。特に、大切な家族や友人との別れは、心を引き裂くような悲しみをもたらします。思わず「なぜ今なのか」「なぜこの人なのか」と問いかけずにはいられません。
イスラエルの歴史もまた、周囲の大国に翻弄され続けてきました。より大きな武力によって、正義が反転する姿を目にする機会もありました。自由と自治を求めた戦争であったとしても、命は失われ、農作物は奪われ、家屋も壊されてしまいます。そのような極限状態において、私たちは何を大切に生きるのでしょうか。コヘレトは神を見上げ、神の定める時に信頼し、賜物としての生涯に幸せを見出します。私たちは、神から託された束の間を生きています。時に選択肢を間違えてしまうこともあるでしょう。それでも神は、全ての時の責任を、全ての罪を引き受けてくださいました。今日という時も、与えられた命も、出会いも全て神の時の中にあります。自分の力ではどうしようもできない時こそ、「神の時」が私たちの支えとなり、希望となるのです。
音声メッセージ