申命記 5 章 12-15 節
あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。
日曜日が休日となった歴史を紐解くと、古くは 4 世紀のローマ帝国で制定されました。しかし週に一度の休日を定めることは、貴族や支配者層にとって好ましくありません。奴隷や従業員たちを休みなく働かせた方が、利益を得られるからです。労働者の人権の観点から休みが与えられるようになるには、19 世紀イギリスの「工場法」まで時代を待たなくてはなりませんでした。
遥か昔の紀元前 13 世紀頃から、イスラエル民族は神様との約束である安息日(週に一度仕事をストップし、神様と交流する時)を守っています。エジプトの奴隷だった時代、イスラエルの民には休みはなく、礼拝をささげる許可も与えられません。主が命じられた安息日は、救い出された自由の中で礼拝をささげ、神様と共に安らぐひと時です。過去に奴隷だった人は、その痛みと苦しみを知っていることでしょう。だからこそ安息日を独占することなく、家族や動物たち、一時滞在の方や奴隷たちとも分かち合うようにと定められました。私たちも周りからの評価や、将来の不安、やめられない習慣など、囚われ縛られているものがあるかもしれません。それでも主は、今日も私たちを主にある自由と安息の交わりへと導き招いてくださるのです。
音声メッセージ
創世記 2 章 1-3 節
この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
世界の初めは一体どのようなものだったのか、古今東西の人々は思いを馳せました。幾人かの科学者は、偶然とは思えない極小の可能性を前に、神の存在を見出します。時代の変遷を経て、科学的に証明される事柄は増えました。人類が新たな物質や秩序を発見していった歴史と言えるでしょう。それでも神秘のベールに隠されている部分は未だ残り続けており、世界の初めを完全に再現することは不可能です。無から有を、混沌から秩序を創造することは、人間にはできません。
聖書は神による世界の初めを語り伝えます。光・水・空・地・植物・そして命を神が創られた、と。この仕事の完成は、神が創造の働きを離れたことによって成し遂げられました。仕事の真価が問われるのは、付きっきりで面倒を見ている時ではなく、手放す中で見出されるのかもしれません。神の安息は、世界を信頼して託す行為でもあったでしょう。同時に人々もまた、神に委ねて安息するようにとの招きです。親の懐で子どもが安らぐように、信頼できる存在のもとに、私たちの安息はあります。毎日を忙しく働いている方が、週に一度の休みを確保する。安息日、まるで家族団らんのひと時を祝福して、大切に守られる神様が共におられます。
音声メッセージ
ルカによる福音書 15 章 1-7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
ニュースでもアニメでも、どのような立場で語られているか、その方向により受け取りが逆転することがあります。いつも正義のヒーローにやられてしまう悪者でも、その人の側から物語を振り返れば、新しい一面が見えてきます。自分を正しい側に置くならば、輪を乱す存在が疎ましくなります。団体行動で迷子になる人もおられるかもしれません。しかし自分を迷子になった側として、探し出してもらえたならば、この上なく感謝な出来事となるでしょう。
当時のユダヤの文化では、羊飼いは律法を守ることが出来ないため、罪人だと見下されていました。しかし、小さな一匹の羊にまで目を留めて大切にする、羊飼いのような神様をイエスは語ります。神様は、弱い者や小さい者、居ない方が良いと言われている者たちをこそ大切にされます。迷子の羊を見出し、居るべきところに連れ戻せた恵みと喜びを、主は分かち合います。飛び出して行った羊を厳しく裁くのではなく、赦して救い出すのです。迷子の羊を排除していけば、強く正しい羊の群れとなるのでしょうか。むしろ、今度は自分が追い出される番かも知れないと、不安が広がります。教会は一匹の羊を、一人ひとりの命を、お互いに大切にしたいと願っております。
酒井敬仁師
音声メッセージ