イザヤ43章16-20節
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。
新しい一年が始まりました。日ごとに新しい命があたえられ、生かされていることを覚えます。新年の抱負、みなさんはどのような計画を立てているでしょうか。江波教会においても、新しい年度をどのようなテーマで過ごしていくのか、共に聞いていきたいと願っています。今日の聖書の箇所は、今年度の主題聖句です。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」このみ言葉を胸に、一年を過ごしてきました。
そして次の一歩を、主に期待しながら、共に探りつつ踏み出していきたいと考えています。新しい一歩を踏み出す時、前を向く必要があります。過去の悲しみに縛られたり、過去の栄光に囚われたりすると、前を向くことが出来ません。今、神様の語り掛けに耳を澄まし、今、神様の御業に目を注ぐことへと招かれているのです。しかし、その御業は、草木の芽のようにまだ明らかにはなっていません。幻のように掴みにくいものです。
しかし、神様の御業は新しく、自然界にまで広がり、動植物も満たされるようになるという光景が預言されています。幻に目を凝らしていきましょう。神様の新しい御業はもう既に始まっているのですから。
マタイ2:13-23
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。 「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
エジプトで生まれたモーセも、ベツレヘムで生まれたイエス・キリストも、王様によって命を狙われました。男の赤ちゃんを全て殺害するようにという命令が下されていたからです。その背景には、独裁者による地位への固執と、自分さえ良ければという身勝手な思いと、手にした権力を失うかもしれないという不安がありました。赤ん坊という小さな存在にまで、恐れを生じていたのです。その後下された虐殺命令。大切な命を奪われた人々からは、「慰めの言葉なんていらない、子どもたちはもう居ないから」と、悲痛な叫び声が響き渡りました。
私たちは、「逃げるのは恥だ」と教えられてきたように思います。しかし、聖書は真逆の価値観を提示します。
逃げろと、神様が命令するのです。神様ご自身が、逃れる場所となる。シェルターとなる。命を守る砦となる。だから、逃げなさいと語り掛けているのです。
逃げてはいけないと思う時、頼れるのは自分の力です。逃げても良いんだと思える時、頼りになる存在を思い出します。私たちの痛みを知り、嘆き悲しむ声を聞かれた主が、共に居て下さる。そして、必要なもの全てを備え、導いてくださる主に頼り、新しい一年を歩み出しましょう。
マタイ1:21-23、2:1-12
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
♰メリークリスマス!この挨拶はMerry(愉快な)+ Christ(キリスト)+ mas(礼拝)という、三つの単語が組み合わさっている言葉です。「喜びのキリスト礼拝」と言うことも出来るでしょう。世界で初めのクリスマスは、イエス・キリストの誕生の際におこなわれました。星の光に導かれ、遠い国からやってきた博士たちによって礼拝がささげられたのです。
私たちは友人に誘われたり、家族に連れられたり、または、ご自身の関心によって、聖書を読んだり教会に集ったりします。そこには、きっかけ・導きがありました。私を教会に誘った人はどのような導きがあったのだろうか。
さらにその前の人の導きは…どんどん遡っていった時に、この星の光の導きに繋がっているのです。私たちは導きによって、出会いが与えられ、変えられていく。誰かと出会う時に、その人が私の心に生まれる。
イエス様との出会いも同じです。あなたがイエス様と出会う時、あなたの中にイエス様が生まれる。それが、あなたにとってのクリスマスなのです。綿々と繋がっている歴史。2000年前にイエス・
キリストがこの世に誕生し、今に至るまで人々と出会い続けていることに繋がっているのです。