ヨハネによる福音書 6:1-15
「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」 (9節)
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられてから,座ったいる人々に分け与えられた。
魚も同じようにして、欲しいだけ,分け与えられた。 (11節)
「どこでパンを買えばよいだろうか?」と、イエス様は、12弟子の一人であるフィリポに質問しました。イエス様がパン屋を捜している光景は、なんとも親近感の湧く姿です。しかし、その背景には、病院に行くことが出来ない、食事も十分には取ることが出来ない、5000家族(1万人~2万人)の人々がイエス様の目の前にいたのです。「人々に食卓を用意したい」このイエス様の願いが、冒頭の言葉となったのです。
これは無理な願いです。お金の問題もありますし、もしパン屋さんが近くにあっても準備しきれないような大量の注文になります。フィリポは正しい答えを言いました。「200万円あってもパンは足りないでしょう。」そのような状況の中、名前も無い『少年』が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に献げました。これだけでは、5000家族のお腹を満たすには足りないでしょう。弟子のアンデレも「何の役にも立たない」と評価をしました。しかし!!イエス・キリストは、無視され小さくされた少年のわずかな献げ物に目を留めたのでした。そして何倍・何十倍・何百倍にも祝福し、豊かに用いました。
私たちは誰かに何かを献げる時、痛みを覚えます。現状が足りなければ渡せないのが普通です。しかし、主が用いる時、不足していた皆が満たされ、更に12籠いっぱいのパンの欠片を受け取るのです。私たちは受け取った恵みをどのように用いてまいりましょうか。
ヨハネによる福音書3章1~15節
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
聖書にはアイウエオ作文の詩や、韻、たとえ話や、一つの言葉で二つの意味の掛け合わせなど、面白おかしく覚えやすくするための工夫がある。
ニコデモとイエス様との対話は、すれ違っており噛み合っていないように見える。
しかし、そこにはダブルミーニングやユダヤ教の文化が背景に隠されている。
イエス様はニコデモに向かって、何度も何度も、「アーメン、アーメン(はっきり言っておく)」と、大事なことを伝えている。理解しきれないニコデモに、諦めることなく語りかけ続ける。対比やたとえ話を用いて、何とかして伝えようとする。それは、『わたし(イエス様)を信じ、救われよ』という招きであった。
イエス・キリストはニコデモに向かって、そして私たち一人一人に向かって、「ラビ(先生)として信じるのではなく、メシア(救い主)として信じなさい」と、諦めることなく語り掛け続けている。十字架のイエス・キリストこそが、私たちに新しい霊・新しいいのちを注いでくださるのである。
詩篇51:12
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
神様の出来事と出会う時、気付かされる時、私たちはその出来事を表現したくなります。また、自分でも目を背けたくなる程の、自分の罪に向き合わされる時、神様を求めるのではないでしょうか。詩編には、神様への思いを言葉にした、祈り・賛美・詩・歌が集められています。
51編で、詩人は「霊」を求めます。霊とは、他の場面では、風・息・命・心と訳されている言葉です。「霊」は神様からいただく、いのちなのです。そして詩人は3つの霊を求めます。①「確かな霊」確かさ、基準となるものを私たちは持っていません。清い心もありません。神様のみが、新しく創り出してくださいます。②「聖なる霊」私の中にある良心も、神様から与えられたものです。どうか、取り上げないで下さいと、詩人は祈ります。③「自由の霊」私を支える霊は、神様という身分の高いお方の霊、その霊は進んで働き、自由に導き、仕えることを喜ばれる霊。その霊で、私を支えてくださいと求めています。
驚くことに、神様も「霊」を求めています!「打ち砕かれた霊」を求めているのです。それは神様を求める心。神様の前で、自らが小さくなり、神様の憐みを願う心。その時、赦されていることに、気付かされるのです。今週一週間も、新しい霊を求め、新しいいのちに生かされていきましょう。