エレミヤ6:6-16
「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に立って、眺めよ。昔からの道にッ問いかけてみよ。
どれが、幸いに至る道か、と。
その道に歩み、魂に安らぎを得よ。
8月は「平和」をテーマにしています。預言者エレミヤは神様の言葉を伝えます。「人々は、平和がないのに『平和、平和』と言う」。当時エルサレムでは、法律が守られておらず、地位ある者による抑圧があり、人々は自らの利益を貪っていたことが記されています。その中で主は、小さくされている人々の叫び声を聞かれた。いじめが起きることにも、上下の力関係が発生する構造にも神様は怒られた。それは「平和」ではない。だからこそ主は、「懲らしめを受け取り、立ち帰りなさい」と語るのです。
沖縄のニュースを聞きました。「クラスターが発生した米原子力空母乗組員3000人の沖縄移送計画の取りやめ」というニュースです。沖縄の人達は、とても困りました。沖縄平和運動センターの方は、新聞でこのような発言をしています。「沖縄がまともに扱われないところに、県民の痛みと、憤りがある」と。この叫び声もまた、神様は聞かれているのです。
『分かれ道に立って、周りを見渡しなさい。過去を振り返り、幸いに至る道をたずねなさい。その道を歩み、魂を安らぎなさい』。主の言葉は、時を超え、場所を超え、今もわたしたちに響いているのです。
詩編85:1-1
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます。
「シャローム」とはヘブライ語で「こんにちは」等と訳される挨拶の言葉です。
そこには、「あなたの上に平和・平安がありますように」という意味が込められています。
2020広島平和宣言は「連帯」をテーマに語られました。1947広島平和宣言を見てみると、戦争の根本的否定と平和の熱烈なる希求が『平和宣言』として決意の言葉となって表されたように読み取れます。どこが同じで、どこに違いがあるのでしょうか。私は二つを読み比べ、現代が平和を宣言出来ない状況にあるように思いました。パンデミック、それぞれが抱えているストレス、いじめ、差別、死、今も続いているシリアでの戦争…。
詩編の詩人も、私たちと同じように、平和ではない只中に居ました。神さまに助けを求めていました。そして、主の言葉を聞くために沈黙の時を持ちます。唐突に、一方的に、神さまは宣言します。『主は平和を宣言されます』。主が、私たちに、平安あれと語られる。平和宣言は、人々が再び愚かなふるまいに戻らないためです。広島平和宣言も慰霊碑の前で宣言します。「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」と。
私たちの状況に関わらず、主が平和を宣言される。主に平和がある。正義の雨は天から注がれ、主への信頼は地上から芽生える。だからこそ私たちも、人々と連帯し、主に連帯し、平和の一歩を、平和の宣言をしてまいりましょう。「シャローム」
エフェソの信徒への手紙2:11-22
キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を造り上げて平和を実現し、十字架を実現し十字架を通して、両者を1つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
今月は「平和」がテーマです。今日の箇所では、二つのグループの対立が描かれています。一つはユダヤ人キリスト者、もう一つは異邦人キリスト者。イエス・キリストを信じた後も、ユダヤ人グループは律法を大切にしていました。律法とは神様から与えられた約束です。その律法を守っているという自負と誇りを持っていました。
一方、異邦人キリスト者は、「救いはイエス・キリストから来る、律法から来るのではない」と信じていました。そして、そのことをユダヤ人キリスト者たちも知っているのに、なぜ、今までの文化や慣習を守っているのかと軽蔑していました。
わたしたちもまた、文化の違いに直面した時、対立が起こり得ます。結婚においてもそのような場面はあるのではないでしょうか。対立構造の間には、お互いを隔てる「壁」が立っています。文化を隔てる壁、年齢を隔てる壁、性別を隔てる壁、職業を隔てる壁…。「壁」の中には、「敵意」が存在していると、聖書は語ります。私たちは「壁」の前に佇むことしか出来ません。しかし、イエス・キリストは「敵意という壁」を十字架において滅ぼしました。「壁」を失った私たちは、一つの共同体として生きていくことが出来るのです。共同体の中心にイエス・キリストが居るのです。イエス・キリストこそ、私たちの「平和」そのものなのです。