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使徒言行録 26 章 8-32 節
「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」


花材/ひまわり・タマシダ・藪萱草
花材/ひまわり・タマシダ・藪萱草

 死者の復活は、旧約聖書の中にも書かれています。それでも二千年前の多くの人々と同様に、私たちはそのような奇跡を見たことがありません。だからこそ、当時も現代も多くの人々は、死者の復活を信じ難いと考えています。パウロ自身もまた復活を否定し、イエスの名で集う群れを迫害していました。

 そのような自分が変えられたと、パウロは証言します。きっかけは衝撃的な出会いでした。迫害のためダマスコの町に向かう途中、天からの強烈な光に照らされて倒れ込んでしまったのです。その上、パウロ個人の名前を呼ぶ声が聞こえ、会話の主は復活のイエスだと言うのです。迫害している相手が、主なる神だと知らされました。パウロは神様のためであると信じ、正義感に基づき、ユダヤ教に立ち帰らせるため、キリスト者を捕縛し処刑に賛成してきたのです。過去のあやまちに気付かされる時、今まで自分は何てことをしてしまったのかと、罪の意識に心は砕かれます。そのパウロに主は使命を与えるのです。復活のイエスの証人になりなさい、闇から光へ、サタンの支配から神の権威へと救い出された恵みを宣べ伝えなさい。復活が確信となる時、絶望の闇から希望の光へ、死から命へと導かれていくのです。


音声メッセージ

執筆者の写真杉本拓哉牧師
使徒言行録 25 章 13-27 節
このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。

グラジオラス・コエビソウ・紫陽花
グラジオラス・コエビソウ・紫陽花

 ホロコーストから生還したフランクルは「夜と霧」を執筆しました。彼曰く、死が身近な極限状況では、未来に対して生きる意味を見出しているかどうかが問われます。希望や使命がいのちを輝かせると言えるかもしれません。現代もまた、生きることが困難な世の中であり、自分一人では限界があります。心を神に向け希望を持つこと、神から働きを託されて使命に生きること、関係性の中にある命のモデルが聖書に記されています。

 パウロは無実の罪で捕らえられ、政治の道具として扱われ、二年間も監禁されていました。裁判を担う総督が、正義や真実や良心によって判決を下すのではなく、権力者の都合に合わせた裁きをしていたからです。目を背けたくなるような人の汚さやズルさも、聖書は記述しています。ただしそれだけではなく、苦しみの中にあっても輝くいのちの光が証しされています。パウロが見出していた希望は、イエス・キリストの復活でした。彼の証言には、救い主によって罪の死から救いだされた喜びで溢れています。このようにしてイエスの名前は、パウロを通してローマ総督やユダヤの王にまで届けられました。それは人の計画ではなくパウロに与えられた神様の約束であり使命だったのです。


音声メッセージ

執筆者の写真杉本拓哉牧師
使徒言行録 24 章 1-27 節
「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」


アマリリス・ミニヒマワリ・アイビー
アマリリス・ミニヒマワリ・アイビー

 

 沖縄では 6 月 23 日を「慰霊の日」とし、命こそ宝であることを覚えています。この言葉の背後には、79 年前に起こされた戦争において、命が軽々しく扱われた過去があります。日本本土での決戦前の時間稼ぎとして戦いは始まり、敗戦濃厚な状況では日本兵から沖縄県民へ集団自決の命令が下されました。戦後、本土の安全保障のために沖縄はアメリカに差し出され、本土復帰した後も現在に至るまで米軍基地という負担は続いています。命の価値に上下はありません。命を道具扱いし、差別し、軽んじてよい理由など、どこにもないのです。もしも私たちが組織を維持するために、誰かの痛みに鈍感に無自覚になるのであれば、戦争の過ちを繰り返していることになるでしょう。

 パウロはローマ総督の前で、大祭司と長老たちの訴えにより裁判にかけられます。弁護人は、パウロがどれだけ危険人物か、ユダヤ教の正統派ではなく分派を教え、神殿を蔑ろにしていると訴えます。パウロは全てに反論し、総督はパウロの罪を見出しません。しかし総督はユダヤ議会の好意を得るため、2 年もの間判決を引き延ばしていったのです。道具扱いして良い人間などいません。命を慈しむ主の目が共に見ておられるのですから、良心に従って生きていこうではありませんか。


音声メッセージ

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