- 杉本拓哉牧師

- 2021年1月17日
- 読了時間: 1分
マタイ3章13-17節
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が。天から聞こえた。

キリスト教が大切にしている礼典(儀式)に『バプテスマ』があります。
バプテスマとは元々、浸す・洗う、という意味の言葉です。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい」と人々に呼び掛け、罪を告白する人々にバプテスマを授けました。ヨルダン川で人々に対して、『一度水に沈めた後、水から起き上がらせ』=バプテスマを授けたのです。バプテスマの儀式を通して、罪人としての命は死に、罪が洗われて、新しい命に生かされることを表現しました。
イエス・キリストもまた、ヨハネからバプテスマを授かります。しかしこの出来事は、大きな問いを生みました。果たして、イエスには罪があったのでしょうか。悔い改めることがあったのでしょうか。…イエスは誕生後すぐに、イスラエルからエジプトに逃避します。そして再びエジプトからイスラエルに戻ってきます。イスラエル民族の歴史を、まるで辿っていくかのように歩まれました。人々の歴史を、私の歴史だと受け止められた。
人々の罪を、私の罪だと告白された。人々と共に、神様のもとに悔い改めた。イエスのバプテスマは、罪人に連帯して生きるという決心です。そして私たちのバプテスマは、イエスに連帯して生きるという決心です。
- 杉本拓哉牧師

- 2021年1月10日
- 読了時間: 2分
イザヤ43章16-20節
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。

新しい一年が始まりました。日ごとに新しい命があたえられ、生かされていることを覚えます。新年の抱負、みなさんはどのような計画を立てているでしょうか。江波教会においても、新しい年度をどのようなテーマで過ごしていくのか、共に聞いていきたいと願っています。今日の聖書の箇所は、今年度の主題聖句です。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」このみ言葉を胸に、一年を過ごしてきました。
そして次の一歩を、主に期待しながら、共に探りつつ踏み出していきたいと考えています。新しい一歩を踏み出す時、前を向く必要があります。過去の悲しみに縛られたり、過去の栄光に囚われたりすると、前を向くことが出来ません。今、神様の語り掛けに耳を澄まし、今、神様の御業に目を注ぐことへと招かれているのです。しかし、その御業は、草木の芽のようにまだ明らかにはなっていません。幻のように掴みにくいものです。
しかし、神様の御業は新しく、自然界にまで広がり、動植物も満たされるようになるという光景が預言されています。幻に目を凝らしていきましょう。神様の新しい御業はもう既に始まっているのですから。
マタイ2:13-23
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。 「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

エジプトで生まれたモーセも、ベツレヘムで生まれたイエス・キリストも、王様によって命を狙われました。男の赤ちゃんを全て殺害するようにという命令が下されていたからです。その背景には、独裁者による地位への固執と、自分さえ良ければという身勝手な思いと、手にした権力を失うかもしれないという不安がありました。赤ん坊という小さな存在にまで、恐れを生じていたのです。その後下された虐殺命令。大切な命を奪われた人々からは、「慰めの言葉なんていらない、子どもたちはもう居ないから」と、悲痛な叫び声が響き渡りました。
私たちは、「逃げるのは恥だ」と教えられてきたように思います。しかし、聖書は真逆の価値観を提示します。
逃げろと、神様が命令するのです。神様ご自身が、逃れる場所となる。シェルターとなる。命を守る砦となる。だから、逃げなさいと語り掛けているのです。
逃げてはいけないと思う時、頼れるのは自分の力です。逃げても良いんだと思える時、頼りになる存在を思い出します。私たちの痛みを知り、嘆き悲しむ声を聞かれた主が、共に居て下さる。そして、必要なもの全てを備え、導いてくださる主に頼り、新しい一年を歩み出しましょう。