- 杉本拓哉牧師

- 2020年11月29日
- 読了時間: 2分
詩編113:1-9
ハレルヤ。 主のしもべらよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。
今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。

子どもの頃、「高いたかい、低いひくい」と抱かれながらの上下運動が楽しかった思い出があります。現在は、幼児の頭へのダメージがあることが分かり、控えるように注意されておりますが…。年齢を重ねるにつれ、この感覚を失っていることに気付きます。成績や評価が上がることを願い求め、下がりたくはないと思うのが普通の感覚ではないでしょうか。
聖書は、この価値観も認めつつ、新たな光を差し込みます。諸国の王よりも権威を持ち、時間や空間を支配している主を誉めたたえています。驚くべきことに、そのような高いところに居た方が、低いところに降って来られると語るのです。これは人となられたイエス・キリストを表しています。王子様が身分を隠し、違う国にお忍びに行きました。イエスが共に生きたのは、貧しい漁師たち、社会から排斥された人々、「罪びと」のレッテルを貼られた売春婦や取税人でした。それは諸国の王様から見たら小さな存在、まるで塵芥にも等しく思える存在だったことでしょう。
しかし、イエスはその一人一人に目を留め、出会い続け、時に癒し、時に食卓を囲み、共に生きる者となりました。王子様との会見も、食卓も、本来特別な相手としかなされない出来事です。そのような特別な存在として、主はあなたと出会うために降って来られたのです。 ハレルヤ!
ヨハネ4:7-26
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(21節)
今がその時である。なぜなら、父がこのように礼拝をす者を求められるからだ。(23節b)
今日の聖書の舞台、イスラエルにあるサマリアという場所は、ガリラヤ湖と死海の間に位置します。この地域は雨が少なく乾燥していました。イエス様は歩き疲れ、喉が渇き、井戸のところに座っています。するとそこにサマリアの女性が水を汲みにやってきました。イエス様はこの女性に「水を飲ませてください」と声を掛けます。しかし返事は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女性の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、つっけんどんな言葉。一体どういう訳なのでしょう。
この理由はサマリア人とユダヤ人との間に、歴史的な確執があったからです。両者は700年以上にも渡る犬猿の仲でした。イエス様はそのような対立の中で、相手の居る場所に自ら赴き、心が離れていた人に寄り添っていったのです。
そしてこの女性は、結婚と別れを繰り返しており、サマリア人の中でも孤立し、小さくされていた人物でした。イエス様は彼女の触れてほしくない、知られたくない、隠していたい、最も暗い場所を明らかにされました。イエス様の光が差し込む時、この人のイエス様に対する認識は、ユダヤ人男性⇒先生⇒預言者⇒救い主と、少しずつ変えられていきました。私たちは出会いによって変えられていきます。イエス様は今日も、あなたとの出会いを心待ちにしておられるのです。
- 杉本拓哉牧師

- 2020年11月22日
- 読了時間: 2分
ゼカリヤ8:1-23
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗ってくる。
見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。9節

果たして苦しみの意味とは何なのだろうか。古今東西、多くの人々がこの問に向き合ってきた。今日の聖書の箇所は、衝撃的な言葉で答えている。それは、「神が災いをくだす決意をした」との言葉だ。続く質問は「では、なぜ神は災いをくだすのだろうか」という疑問だ。その理由として「神は、激しく熱烈に愛情を注がれる方」であると、神の性質が語られている。愛していないならば、または無関心でいるならば、相手の言動や行動に対して、怒らなくて済むかもしれない。しかし、愛する民が神様を裏切るならば、神は怒りを発せられるのである。
神の怒りは災いとして現れることがある。しかし、災いで終わるものではない。神様との関係性は、一方的な神の恵みによって回復される。それは「神があなたに幸いをもたらす決意をした」からである。聖書は私たちに語り掛ける。神様があなたに対して真実であるように、あなたも隣人に対して真実でありなさい。神様の正義が愛に満ちているように、あなたの正義も愛で満たしなさい。神様によって平和の種が蒔かれたのだから、あなたも平和をもたらす裁きをしなさいと、招いている。自分の真実・自分の正義・自分だけの平和は争いを生む。神の愛により、神と人、人と人、人と自然との関係性は、繋ぎ合わされるのである。