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『父の招き・兄の場合』
更新日:11月24日
ルカ福音書15章25~32節
子よ、お前はいつもわたしと私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
みなさん、おかえりなさい。今日は放蕩息子のたとえ【兄】に注目したいと思います。
私たちは「自分こそが正しい」という思いをもって行動することがあります。『自粛警察』と呼ばれている方々も、自らの行動を正しいと思いながら行っているのでしょう。
【兄】は一日の働きを終えて、家に帰ろうとしています。すると、家では弟のためのパーティが開かれていました。しかも、なんと父親は弟に、豪華な服・指輪・靴・さらに良く肥えた子牛までプレゼントしたそうです。【兄】は怒りました。弟に対して正義感で裁きます。そして父に対しても責め立てます。その瞬間【兄】は、自らが『絶対的に正しい存在=神様』となりました。しかし【兄】は弟の苦しみも悲しみ知りません。そして、父の愛の深さを知りませんでした。
二人の息子、性格も違います。歩んできた人生も違います。片方が救われれば、片方は救われないという、悲しい結末なのでしょうか。福音は自分たちの中からは生まれません、向うからやってくるものです。父は【兄】のために家から出て来て、なだめつつ、慰めつつ、宴会に加わるように頼み込むのです。父は今も、弟のためにも【兄】のためにも、いのちを受け取るようにと、愛して招き続けているのです。