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執筆者の写真杉本拓哉牧師

意見の対立 ―救いは恵みか律法か―

更新日:2024年11月20日

使徒言行録 15章1-21節
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

花材/セイタカアワダチソウ・ポトス
花材/セイタカアワダチソウ・ポトス

 宗教において、「救い」とは極めて重要な概念です。それは、来世か現世か、個人か集団か、自力か他力か、これらの観点により分類することができます。キリスト教における救いとは、イエス・キリストの十字架の贖いにより私たちの罪が赦されたこと、そして現在も来るべき世でも義とされること、主の命に生かされることだと定義します。つまり現世と来世の両方の視点で、個人的に、イエスという他者によって救われることを信じる宗教だと言えるでしょう。

 これらは初めから明白だったのではなく、話し合いを経て、主に聞き見出してきた教義です。今回の箇所では、自分が律法を守ることによって救いに与るのか、それともイエスという神の恵みのみによって救われるのかが論点になります。旧約聖書の律法は、例えるならば高度一万mまで到達しなければ救いがないことを教えます。律法学者はジャンプの練習をしたり、山に登ったり努力をします。イエスの救いは、まるで飛行機のように高度一万mまで引き上げてもらうようなものでしょう。自分の力では律法を守れないと絶望した人や、そもそも律法を知らなかった人にとって、このイエスの救いは希望となります。


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