ヘブライ人への手紙9:1-20
キリストは、既に実現している恵みの大祭司としてお出でになったのですから、
人間の手で造られたのではない。
聖書には『贖い(あがない)』という言葉が出てきます。あまり聞いたことのない単語かもしれません。この贖いという言葉は、原語から調べると三つの意味をもっていることが分かります。
一つ目は、罪を覆うこと…傷口を絆創膏で覆い、罪に対して応急処置をするイメージです。二つ目は、身代金の支払い…誘拐された人を取り戻すこと。三つ目は、家族としての振る舞い…家族が借金をして、土地が差し押さえられたり、奴隷となったりしたならば、それらを買い戻す行為を意味します。
十戒の石板が納められた契約の箱。箱の蓋は、『贖いの蓋・恵みの座』と名付けられていました。エルサレムの民の中で、一人しかいない大祭司が、一年に一度の『大贖罪日』に、雄牛と山羊の血を贖いの蓋に振りかけます。「生き物の命は血の中にある…血はその中の命によって贖いをする」(レビ記)それが罪の贖いのための儀式だからです。
この文脈の中で、イエス・キリストが分かち合われます。ただ一度十字架で流された血によって、私たちは罪から清められ、罪の奴隷から買い戻された。イエス・キリストこそが、神と人とを繋ぐ大祭司であると、聖書は語ります。イエス・キリストは今日も、あなたのために私のために血を流されているのです。イエス・キリストのいのちに与り、生かされてまいりましょう。
ハガイ2:1-9
万軍の主は言われる。わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。(5節)
この場所にわたしは平和を与える。(9節)
大切な物が無くなるのは、とても悲しい出来事です。先日行われた、日本バプテスト連盟の臨時総会にて、天城山荘という宿泊施設の経営権移譲を検討していることが話し合われました。私にとって、バプテスマの決心や、牧師への献身のきっかけとなった思い出の場所です。それでも、何が一番大切なのか。何を第一とするのか。建物よりも、神様を大事に考えていきたいのです。
ソロモンの建てた神殿は、バビロニア帝国により壊されてしまいました。今まで礼拝のために用いてきた祭具も無くなりました。イスラエルの民がバビロン捕囚にて帰還したとき、神殿は廃墟となっていたのです。苦しい時、辛い時、私たちは「何を第一にしているのか」と、本質を問われます。
頼りにするものは何も無いと、気落ちしているイスラエルの民に、神様は「勇気を出しなさい」と、語り掛けます。そして勇気を持てない、私たちの様々な理由に対して、ことごとく反論していきます。私たちが大切にしていた神様との約束、十戒の石板が無くなっても、神様ご自身が契約を保持していると語ります。だから、勇気を出しなさい。私たちの目の前に何も無いように思えても、主の約束に目を注いでいきましょう。今日も万軍の主があなたと共におられるのですから。
列王記上8:20-30
両手を天に伸ばして、祈った。
「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません」 {8章22b~23)
家を建てるというのは、多くの場合一生に一度あるかないかという大切な出来事です。
ましてや、神様のための住まいを建てる時、どれほどの思いが込められているでしょうか。モーセによる幕屋とソロモンによる神殿、この二つはとても似ています。どちらも人々の生活の中心であり、礼拝の中心でした。どちらも礼拝のために、神様へ動物を捧げる祭壇・祭司が身体を清めるための洗盤・幕屋の光源となる7つの燭台・パンとぶどう酒の献げ物・香の祭壇・そして十戒が納められた契約の箱が備えられました。幕屋と神殿には、もう一つ共通点があります。どちらも完成した時に、神様の栄光が現れたのです。
神殿が完成した時、ソロモン王は祈ります。今回、5つの視点からこの祈りを見本にしたいと思います。「約束を守り、愛を注いで下さる神様」と祈りを捧げる対象へ①告白の言葉をもって呼びかけます。そして、②感謝と願いを語ります。祈りの中で、③自分と神様に出会う、交わりが与えられます。ソロモンは豪華絢爛な神殿を建て上げましたが、それでも「世界を創造された神様が入るにはふさわしくない」と、④砕かれ悔い改めます。そして、「私の罪を赦してください」と、⑤神様に立ち返ります。私たちも祈りましょう。神様は今も変わらずに、一人一人の祈りに耳を澄ませ、目を注いで下さっているのですから。