イザヤ書 51章1-16節
わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。
江波教会がこの地で宣教を開始して65年が経ちました。振り返れば沢山のお顔が思い浮かぶことでしょう。写真や文章を通して、その時代ごとに教会を支えた方々の思いに触れることがあります。その方々は今も、主を証していると思わされるのです。誰かが語る言葉に耳を澄ませていくことは、語る人の心を受け止めていくことに通じます。そのため、聖書に聴いていくことは、神様の心を受け取っていくことに他ならないのです。
神様は私たちに語り掛けます。「あなたのルーツを振り返ってご覧なさい。人の絶望を越えて成し遂げられた、神の救いの出来事を思い起こしなさい。」過去を振り返ることは、未来を見通していくことにも繋がっていきます。イスラエル民族はこの時、バビロニアとの戦争に負けて囚われの身になっていました。信仰の拠り所であるエルサレム神殿は崩壊しました。そのような絶望の淵に置かれているにも関わらず、希望が与えられるのです。過去に救い出してくださった方が、将来においても私たちを贖い、再びエルサレムへと立ち帰らせてくださるとの約束が与えられているからです。主を畏れ、主の希望に生かされてまいりましょう。
音声メッセージ
ホセア書 11章1-11節
わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。…わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。
みなさんは家出をしたことがありますか。家出は現代において社会的な課題となっています。理由は一つではなく、いくつかの要素が組み合わさっていることでしょう。どのような理由にせよ、子どもにとって家が、安心できる空間でないことは悲しいことです。高圧的な独裁者がいる場合、放任主義で無関心な家庭の場合、様々なケースがあります。言葉や身体への暴力がある場合、そこから逃げ出すことも必要になります。
神は痛みを抱えた人々を憐み、愛するがゆえに親となったと聖書は語ります。人々に食べ物を与え、生き方を教え、病の時に癒したのは、主なる神であるのに・・・なぜあなた方は私の心から離れ、偶像の神のもとに家出してしまうのか。そのままでは滅びに至ってしまうのに、と嘆く神の姿が描かれています。主の決断は、怒りによってその火を人々に降すのではなく、憐みによって自ら受け止め胸が焼かれるものでした。神の厳しさがあるからこそ、神の愛の深さは際立ちます。神が人を見捨てて絶縁してもおかしくない状況で、人々が立ち帰ってくることを期待する神。あなたの居場所がここにあるから、帰っておいでと主は招いておられるのです。
音声メッセージ
ルカによる福音書 10章25-37節
「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
授業が終わった後、友達と分からなかったことや大事なポイントを話し合うことがあるでしょう。理解が進んだ人は、友達がつまずいた所を解説することで、自分があやふやに覚えていた所に気付く時となります。理解が十分ではなかった人も、どこが分からなかったのか、何に疑問を持っているのかを伝えることで、もう一度学びを深めるきっかけになります。主体的に教わったり教えたりする中で、学びの質は向上することでしょう。
イエスは、「あなたはどう読むか。隣人を愛するとはどういうことだと思うか。」等と質問することで、相手の主体性を引き出します。そしてイエス自身が、主体的に行動しているのです。たとえ危険な場所でも、宗教的な批判を受けても、相手から嫌われていても、目の前の傷つき倒れた人を助け出します。その動機は、神様が人々の痛みを見た時に、まるで自分の痛みとして共感してくださったことから始まりました。聖書はそれを「憐み」と呼びます。主は憐みをもって、お金と時間と体力を注ぎ込み、いのちを救い出してくださるお方です。主が一人一人に寄り添い、隣人となられた喜びの知らせを共に分かち合ってまいりましょう。
音声メッセージ