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執筆者の写真杉本拓哉牧師
コリントの信徒への手紙一 12章1-27節
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


花材/とくさ・ソリダスター・百合
花材/とくさ・ソリダスター・百合

 シンクロナイズドスイミングやダンスなど、全体で一つの技を寸分の狂いもなく一致させるのを見ると、私たちは感動を覚えます。日々の生活においても、人と人とが思いや行いを合わせることは簡単ではないと知っているからです。時には、メンバーの誰かが調子を崩すこともあるでしょう。そのような場面でも、お互いにフォローし合って演技を繋げていけるのは、同じ目標のためではないでしょうか。

 教会という共同体も、一致するポイントが必要になります。聖書は、イエス・キリストを自らの主であると告白するところに一致があると語ります。それは人の業ではなく、聖霊なる神の働きです。性別も年齢も文化も異なる私たちを、聖霊なる神様が繋ぎ合わせ、一つとしてくださっている。イエス・キリストを中心とした、一つの体となるためです。私たちはキリストの体を構成する一つひとつの部分だからこそ、お互いの強みと弱みを分かち合って生きています。主がこの地で、私たちを通して、何事かを成し遂げようとされています。主の憐みに満ちた目は、どこを向いているのでしょうか。いつだって主の手は優しく、差し伸べられているのです。


音声メッセージ

執筆者の写真杉本拓哉牧師
コリントの信徒への手紙一 11章17-34節
わたしの記念としてこのように行いなさい

花材/椿・ひまわり
花材/椿・ひまわり

 寮生活でもキャンプでも、一緒にご飯を食べる中で仲良くなることがあります。共同生活では、良い所だけを見せられるはずはなく、弱みをさらけ出すこともあるでしょう。それらも含めて出会うからこそ、人は共に生きるものとなるのです。完璧な人など居ません。長所を活かし、欠けた所を助け合い、共同体となっていくのです。

 私たちの教会では月に一度「主の晩さん」をおこないます。これは信仰告白した人が、パンとブドウの杯を飲む礼拝の儀式です。起源はイエスとの最後の夕食、過越祭の食卓にあります。イエスはご自身の体としてパンを分け合い、ご自身の血の契約としてブドウの杯を配ります。それは神様との和解であり贖いの約束となりました。

 コリント教会における食卓では、お金持ちは満腹し、貧しい人は空腹のままでした。隣人が軽んじられたままでは、主の晩さんにならないのです。主が、自らを献げてまでも霊の糧・肉の糧を分かち合ってくださることは、私たちの希望であり喜びです。だからこそ私たちも、分かち合う中で生かされていく。主は今日も、共に生きるようにと招いてくださっているのです。


音声メッセージ

執筆者の写真杉本拓哉牧師
コリントの信徒への手紙一 10章1-15節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

花材/椿・ヒメヒオウギ・エノコログサ・カラー
花材/椿・ヒメヒオウギ・エノコログサ・カラー

 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」これは『星の王子さま』からの一節です。しかし私たちはどうしても、目に見えるものだけに関心を寄せているように思うのです。一体、何を頼りに生きているのでしょうか。お金や、権力や、軍事力や、自分や他人と答えるかもしれません。歴史を振り返れば、幾度となく裏切られ、それらは頼りにならないと知っているのに学ぶことができません。動画配信サイトでも暴露系が人気を博すのは、真実を追い求めているからではないでしょうか。

 聖書では、神以外のものを神よりも優先することを「偶像礼拝」と呼んで退けます。イスラエルの民は出エジプトの旅路において、神によって日々助けられ、命を紡いでいました。それにも関わらず、不安に陥る度に神以外のものを頼りにして、裏切り続けてしまいます。神を信じる道は、困難な目に合わないということではありません。自分より巨大な相手に立ち向かうこともあるでしょう。それでも希望を失わなくて良いのです。「もうダメだ」と思ったところからでも救い出してくださる方、真実なる神が共に居るのですから。



音声メッセージ

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