マタイによる福音書 21章18-22節
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
『信じる』や『祈る』という言葉を、教会ではよく耳にします。主語を付け加えるならば、私が信じ、私が祈るとなるでしょう。その上で重要なのは目的語。一体、私は誰を信じているのかが問われます。私達が人にお願いをする時に、「その人ならば叶えてくれることを信じて」頼むのではないでしょうか。信頼の根拠が自分の側にあるならば、状況次第で揺れ動いてしまうでしょう(例.お金・人脈・外見・権力・体力)。クリスチャンはイエス・キリストを根拠とします。イエス様ならば、私の願いを叶えることができる。私にはできなくても、神様ならばできる。神様の思いに一致するならば叶う。だからこそ自分の願いを明らかにし、その願いが神様の思いと一致することを求め、御心が成るように、イエス様の名前で祈り委ねるのです。信じる根拠も、祈る根拠も、私達の側にはなく、イエス様にあります。だからこそ、私達の状況に関わらず、イエス様を信じ祈ることが赦されている。
イエス様を求める時、私達はイエス様と結ばれます。イエス様に結ばれる時、私達は豊かに実を結びます。大胆に祈り求めましょう。イエス様ご自身が、私達の実を楽しみに信じて祈ってくださっているのですから。
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イザヤ書 2章1-5節
剣を打ち直して鋤きとし 槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣をあげず もはや戦うことを学ばない。
フランシスコの平和の祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
マタイによる福音書20章1-16節
後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
イエスが生きていた時代も、日雇い労働者がいました。一日分の給料がなければ、その日を生き抜くことができない。2000年前も不況で失業者が沢山あふれていました。そんな中、収穫のために、労働力を求めて街にやって来たブドウ園の主人。イエスはそのような主人にたとえて、『天の国』について語り始めました。
主人は朝6時から出かけていき、労働者を1日分の給料、約8000円で雇います。朝9時、昼12時、15時、17時にも出かけ、労働者を雇います。かし後から来たものに対して、報酬を明言しません。夕方の18時頃、みんなにお給料を渡しました。なんと遅く来た順に、しかも全員に同じ8000円ずつを支払ったのです。
意味が分からない。ありえない話です。労働者は誰一人として損をしていない。損しているのは主人だけ。それでも、最後に来た人が得をして、朝一から来た人が割を食っているように思えるのは何故でしょう。働いた量を他者と比べて自ら誇っていた人物は、報酬を他者と比べる中で喜びを失いました。神様は私たちの必要をご存知です。当たり前ではなく、一日分の糧を感謝して受け取る時、恵みと喜びを味わうことになるのです。
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