創世記 2章7-17節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
聖書には、神が人をどのように造られたのか書かれています。それは、人を土の粒子から粘土をこねるように、神に似た姿に造ったという物語です。人の体を構成する元素は、酸素・炭素・水素・窒素・カルシウム・リン・硫黄などから組み合されており、確かに地上の成分と同じであると言えます。しかし、それらの成分を混ぜ合わせたからといって、人ができるわけではありません。形造られた人の鼻に、神が命の息を吹き入れられ、生きる者となったと聖書は告白しています。そこには二つの自己認識があるでしょう。一つ目は、土の粒子に過ぎないという謙遜の心。もう一つは、神が丁寧に形造り、神の命が与えられているという自尊心。高ぶらずに、卑下せずに、その間に立つ存在として人は造られました。
そのような人に役割が与えられます。自然を耕し、守るようにという働きです。託された場所の中央には、命の木と、善悪の知識の木がありました。自然を耕し守ることは、神のいのちと、神の思いと判断を、自らの生活の中心におき大切に守っていくことでした。そのようにして、神と人と自然は関係を築いていました。そして終わりの時、土から造られた体は土に帰り、神から注ぎ込まれたいのちは神に帰っていくのです。
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マタイによる福音書 25章1-13節
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
「油断」という言葉の由来は、仏教の物語という説があります。王様が家来に油の入った鉢を持たせ、「こぼしたらお前の命を絶つぞ」と言ったのだそうです。本日の聖書箇所も「油断」についての物語です。ユダヤにおける結婚式、新婦の友人たち10人は、夜中にやってくる新郎のためにランプを灯して待っています。しかし、新郎の到達は予定よりも遅れ、10人のおとめたちは全員眠ってしまいます。5人は予備の油を持っていたため事なきを得、他の5人は油を求めて出かけて行き、結婚式に参加できなくなってしまったという物語です。
この物語における油は、信仰・善行・聖霊・祈りなどを譬えていると考えられます。いずれにせよ、私という器に溜められる油には限界があります。人生の中では、油が切れたり、火が弱まったりする瞬間もあることでしょう。大切なのは私の中にある油ではなく、新しく注がれる油を用意しているかどうかです。油を注いで下さる神様を求めていくこと。自分自身の器や油を、誇ったり貶めたりするのではなく、油断せず主に立ち返ってまいりましょう。主が来られるその時は、まるで結婚式の喜びと希望で満ちているのですから。
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マタイによる福音書 22章15-22節
すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
「政教分離」とは、政治と宗教が相互に介入しないルールのことです。もし国が一つの宗教を選び取った場合、それ以外の宗教は不利益を被ることでしょう。選ばれた宗教においても問題を生じることがあります。江戸時代では幕府が仏教を推進し、キリスト教を弾圧し、寺社勢力に政治権力が介入しました。過去から教訓を得て、憲法第二十条では、信教の自由と政教分離について定められています。誤解が生じやすいですが、宗教者が政治に無関心でいることではありません。聖書の中には、為政者のために執り成し祈りつつ、王や国が間違った道を歩む時には「否」を突きつける、預言者達の姿が描かれています。
イエスは、政治的にも宗教的にも目を付けられていました。そして罠にかけられます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っていますか。」もしイエスが適っていると言えば宗教者から批判され、適っていないと言えば政治家から反逆者と扱われる。どちらを答えても、他方から否定される罠でした。イエスは答えます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」あなたは何の支配下にありますか。最終的にどこへ帰るのでしょうか。
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