マタイによる福音書 16章13-20節
あなたはメシア、生ける神の子です。
みなさんは、どのように教育を受けましたか。『答え』を覚える形で学ぶことも多いかもしれません。ユダヤ教の先生は、弟子たちに質問を通して教育をしました。『答え』が与えられるのではなく、自ら見出すことに重きを置いているのです。
イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたたちは私(イエス)のことを何者だと言いますか。」弟子たちは、イエスと共に生活をし、教えを聞き、癒しを見て、奇跡を体験してきました。弟子の一人が答えます。「キリストです。神の子です。生きておられる方です。」キリストとは、油注がれた者=救い主の意味です。
当時イスラエルを支配していたのはローマ帝国であり、皇帝の称号が神の子でした。もし兵隊がこの答えを耳にしたならば命が脅かされる危険があります。それでも、天の父なる神と、深い関係を結んでいるのは目の前に居るイエスだと告白しているのです。ユダヤ文化では、偶像を死んだ神と呼び、イスラエルの神こそが生きて働いておられると信じていました。イエスは弟子のこの答えに満足し祝福します。そして、天の父がこのことを現わしてくれたから信仰告白へと導かれたのだと、神様を誉めたたえました。
「あなたはイエスのことを何者だと言いますか。」
マタイによる福音書 8章5-13節
イスラエルの中でさえこれほどの信仰は見たことがない。 10節
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
最近、驚いたことはありましたか。久しぶりに動物園に行ったのですが、沢山の驚きがありました。象の巨大さに驚き、フラミンゴの美しさに目が奪われました。傷ついたサルは、隔離して治療するよりも仲間達と共に過ごす方が回復は早いのだそうです。
イエス様も驚かれました。それは一人のローマ軍百人隊長との出来事です。当時イスラエルはローマの支配下にありました。支配者側である彼が、イエス様にお願いをしにやってきたのです。イエス様は、彼の謙遜的な態度に驚きました。彼の願いは、半身不随になって苦しんでいた僕の癒しでした。召使いが物扱いされていた時代、僕のために奔走する彼の愛情に、イエス様は驚きました。そして、「わたしが行って、癒してあげよう」というイエス様の申し出を、彼は辞退します。彼は、イエス様の言葉一つで癒されることを信じていたのです。
イエス様は彼の信仰に驚きました。百人隊長は僕の痛みを、まるで我が事のように痛みました。イエス様による癒しは百人隊長に与えられました。自らの癒しと同時に、僕は癒されました。痛みを分かち合い、癒しをも分かち合ったのです。驚くべき主の御業がおこされていきました。
ルカによる福音書 19章1-10節
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。
背が小さくて、お金持ち、そして嫌われ者のザアカイが聖書に描かれています。
彼は、イエス様のウワサを聞き、そのような素晴らしい人物であるならば一目見てみたいと思いました。しかしイエス様の周りは、人々が大勢集まっています。背が低いザアカイはイエス様に出会うことが出来ません。場所を変わってくれないかと頼むことも出来ません。木に登り、自分の力で何とかしようと画策します。イエス様はそのザアカイに向かって語り掛けます。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。』
私たちも上を目指して人生の木を登っているのかもしれません。自らの力で、人よりも偉くなりたい、裕福になりたいと頑張る事があります。しかし、登り切った先で、孤独になってしまってはいないでしょうか。何かが違うと思っても、その木から降りることも出来なくなっているのではないでしょうか。その木は、私たちのプライド・人との距離・神様との隔たりなのかも知れません。イエス様は招きます。方向転換しなさいと語り掛けます。私たちの痛みと苦しみと悩みをご存知である方が、幸いの方向へと導いてくださいます。神様の招きは、的外れの生き方から、的を合わせてくださるのです。