お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対してもつみをおかしました。
ルカによる福音書15章11~24節
礼拝の初めに『招きの言葉』があります。神様から招かれ、呼び集めてくださるから、
私たちは礼拝をささげることが出来ます。それは、家庭礼拝においても同じです。そして、それぞれの日々の生活に向かっていく皆を、祝福の祈りと共に派遣します。
集められて、散らされる。散らされて、集められる。「放蕩息子のたとえ」においても、集められるもの、散らされるものが出てきます。
①放蕩息子の弟は、財産が分けられた後、すべてをお金に換え集めます。しかし、そのお金は放蕩によって散らされます。
②弟自身は、遠い国に散らされていきます。しかし、我に返り、罪に気付き、故郷に帰ります。
③弟は「飢えのために死にそうだ」と思っていました。しかし、父は「死んでいたのに生き返った」と語ります。身体は生きていても、家族・周りの人・神様との関係が断ち切られていた状況を「死んでいた」と父は言うのです。弟自身も、金・物・仕事・自由を失い、自らの存在価値を見出せませんでした。家に帰り、父の恵みと憐みにより、弟のいのちが生き返るのです。
今日もまた、父のもとに帰りましょう。ただいまと言わないうちに、走り寄ってきてくださる方が、待っていてくださるのですから。
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して,恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
今年度の主題聖句を見てください。わたしたちの目に見えるところに、神様の働きがあると言っています。花は咲いていません、実をみのらしていません。芽生えているのです。
是非ご一緒に、神様のみ業を見つめ、分かち合ってまいりましょう。
イザヤという名前は「主は救い」という意味です。そしてイエス様も「主は救い」という意味の名前です。この新型コロナウイルスにより、みんなが救いを求めています。
「その日」がいつなのか、私たちには分からないけれども、私たちは救いの泉から水をいただくのです。イエス様という泉から汲まれた水は、その人の内で泉となります。「その日」が必ず来る。いいえ、もう既に、その出来事は芽生えています。神様はもう既に、働いておられます。
今、主に礼拝を捧げる。み言葉に聞き、神様の御業を分かち合い、主を賛美し、主に応答し、一週間の旅路へと送り出されていきましょう。それはまさに、イザヤの預言の成就です。
見よ,私を救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
イザヤ書 12章2節
1
栄光と賛美を すべてささげます
喜びの歌をもて 心からささげます
(おりかえし)
全ての救い主 われらの救い主
主をほめ 賛美します 受けてください
2
おののきと恐れを 全て委ねます
恵みに満ちあふれて 跪き祈ります
3
全能の父 王の王 贖い主 主よ
永遠の命与えて 共に歩まれる主よ